「上田城」は長野県上田市二の丸に有った梯郭式平城です。甲斐武田氏の家臣で信玄に「我が目」とまで言われて重用された真田昌幸が、主家の有った場所に建てた思い入れの深い城です。昌幸は戦略に長け家康軍を2回も撃退した事から、反骨精神の象徴として上田城は人気が有ります。上田盆地の北側に建てられ、尼が淵に面していた為、「尼ヶ淵城」真田氏が治めた為「真田城」とも呼ばれます。

北と西に川を引き込み東側にも湿地帯が有り、天然の要害に守られていました。1583年に昌幸が築城し城主を勤め、その後は仙石氏や松平氏が入りました。上田城築城の際に、太郎山から掘り出した大石を「真田石」と名付け、真田信之が松城へ移封される時に大石を家宝として持って行こうとしましたが、微動だにしなかったという逸話が有ります。それからは上田城の礎石とされ大事にされました。

前出の家康との2回にわたる戦ですが、家康が北条との和平条件の絡みで真田氏が所有している領土を無条件で譲るように命令した為、徳川から拝領した土地では無い事を理由に拒否し、昌幸は次男信繁(真田幸村)を豊臣側へ人質として送り敵対していた上杉方へ鞍替えします。元々上田城は対北条、上杉を想定して家康も出資して造られた城で運命の皮肉を感じさせます。

こすからい方法で領土獲得と自身の基盤安定を目論んでいた家康はあてが外れ8000人もの兵を集め、さらに北条氏にも援軍を頼み攻め込みます。迎え撃つ真田軍はわずか3000人で、勝敗は火を見るよりも明らかでしたが、真田軍の挑発に乗った家康軍は挟み撃ちに遭いあっけなく潰走します。

2回目、徳川秀忠は、関ヶ原に向かう途中、竹田城の側を通りかかり、昌幸の子、信幸と本多忠政に命じて昌幸に対して開城を求めました。昌幸はのらりくらりと返事を先延ばしにして時間稼ぎに徹し、これは徳川軍を3日間足止めしたので戦わずして損害を与えた事になりました。さらに昌幸は挑発して「返答を延ばしていたのは篭城の準備の為でござった。充分に仕度は出来たので、一合戦つかまつろう」と大胆不敵に宣戦布告します。

秀忠は逆上し上田城を落城せしめんと決意しました。家臣は手強い上田城は打ち捨てて関ヶ原へ急ぐべきだと進言するも届かず、また先の戦いで家康が敗退した恨みも有った事から戦が始まります。まさに昌幸の思う壺で益々時間稼ぎが出来て喜んだ昌幸はさらに徳川軍を挑発し揺さぶりをかけます。自身の役目を忘れて昌幸の挑発に乗った凡庸な秀忠は、関ヶ原に遅参して家康の不興を買います。後に秀忠は「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と記していて、上田城が予想外に頑強で有る事と昌幸の知力に感嘆します。

関ヶ原で西軍にくみした真田昌幸と信繁(幸村)は流罪となりますが、家康は信繁を高く評価し「あの世で酒を酌み交わしたい人物」と言っていたそうです。敵将をもうならせる真田氏の人気は竹田城と共に不動となり現在にも伝わっています。