「中津城」は、優れた軍師としても有名な黒田孝高(官兵衛)が、1588年に豊前6群(大分県中津市)の領主として入国し、丸山城を改築して造り上げた、日本三大水城に数えられる梯郭式平城です。全体が扇形をしている事から「扇城」とも呼ばれます。

天守は1964年に模擬で独立式望楼型五重五階にて造られました。因みに、「学問のすすめ」や慶應義塾大学開学の祖として有名な福沢諭吉は、1835年に、中津藩蔵屋敷で生まれ、19歳の時に長崎、大坂へ蘭学を学ぶために進学するまで、この場所で過ごしました。

黒田氏は、周防灘と山国川の河口のデルタを利用した天然の要害を目指して築城を目指しますが、在地勢力の宇都宮氏の強い反発が有り、進みませんでした。黒田の主の秀吉は、宇都宮氏に完全服従を求めますが、鎌倉以来の名族の誇りからか秀吉への謁見を長子に代理させて、伊予今治への移封にも従いませんでした。秀吉は怒り、黒田氏に宇都宮氏討伐の命令を出します。

そこに策略が有り、1589年、秀吉によって宇都宮鎮房に中津城で孝高の子、長政と対面せよという命が下りました。その時、黒田長政は政略結婚の話で鎮房を誘い出し、飲食を供して油断させ、にわかに鎮房を殺し、合元寺に待たせてあった鎮房の家臣勢には、軍勢をさしむけて無惨にも皆殺しにしたのです。合元寺はその後、門前の白壁を何度塗り替えても返り血の血痕が消えず、ついに、赤い壁に塗り直されました。当時の激戦の刃痕が大黒柱に残されていると言います。

黒田長政は、福岡城に城井神社を建立して鎮房を慰霊しましたが、その後も不穏な出来事が続き、その度に宇都宮氏の祟りだと噂されました。幕末には、黒田氏最後の藩主、長知の贋札作りの発覚により、黒田家は処分されるのですが、その贋札作りの屋敷こそは、宇都宮氏謀殺で一番乗りをした野村氏の屋敷で有ったそうで、否応なく因縁を感じさせる事件となっています。

余談ですが、福岡県知事で有った麻生渡氏は宇都宮家と縁が有る家柄との事です。 現在の中津城に江戸時代からの現存建築物は無く、その縄張りも大きく縮小され、川に面した本丸周辺が残っています。今では1964年に旧藩主の奥平氏の子孫が、市民の寄附を受けて復興した模擬天守閣と二重櫓が中津市のシンボルとして親しまれています。

その後、中津城は奥平政幸氏が社長を務める中津勧業の私有地でしたが、多額の維持費が嵩む事を理由に、中津市に売却を打診しました。しかし、金額で折り合いが付かずに、2010年に建物のみ埼玉県の福祉事業会社へ売却され、2011年には、その会社が設立した社団法人「中津城」へ管理が移されています。