「久保田城」は佐竹義宣が1604年に築城した平山城です。山の地形を上手く利用して要害とし防御に備えました。江戸時代後期の文献では「秋田城」とも記されますが「久保田城」が一般的です。他に「矢留城」「葛根城」とも呼びます。

基底部に石垣を組み、その上に土塁を盛る「鉢巻き土手」と呼ぶ工法で基礎が築かれ、天守の代わりに「出し御書院」と呼ばれる櫓を建てて代わりとしました。幕府に遠慮して天守をあげなかったとも推測されますが、元々東国では石垣を組まない築城方法が主流だった為、天守を造らなかったと推測されます。水堀や城郭の形状は西国の様式も取り入れています。

1880年の大火でほとんどの建物が焼失し、市街が再建された時に堀も埋められて官公庁街になってしまいましたが今は「千秋公園」となっています。遺構は土塁と堀、門と唯一大火を逃れた御物頭御番所だけが現存していて、本丸御隅櫓と表門が再建されています。久保田城の城主、佐竹義宣にちなんだ面白い伝説が有って、久保田城に入城して間もない義宣の所に大きな白狐が訪ねて来ました。

寝入り端を起こされた義宣はとても驚きましたが、落ち着きは失わず、それを良いことに白狐はこう語りかけます。「私は神明社に住んでいた齢三百の狐でございます。この度お殿様がお城をお築きあそばされて居場所をなくし途方に暮れております。何卒住まう場所をお与えくださりたく存じます。お礼にお殿様の御用を承りたく存じます。」と身振り手振り交えながら一生懸命に訴えます。

義宣も狐が喋った事にあまり違和感を覚えなかったのか、狐の申し出を真剣に検討し、白狐が何が出来るか問いかけます。狐が江戸へ往復6日で飛脚を承ると申すと膝を打って喜び望みを叶えてやりました。喜んだ白狐は次の日から茶園の側へ住むようになり、義宣は少し面白がって与次郎と名付け、江戸へたいした用事でも無い事を与次郎に命じて本当に6日で往復できるか試しました。

与次郎はきちんと6日で戻って来て、殿が戯れに依頼した用事をこなしました。それからは信頼も篤く「茶園守りの与次郎」と呼ばれて義宣の江戸への飛脚として重宝されたと伝わっています。与次郎は6年あまり義宣に仕えますが、他の飛脚から仕事を奪ったと逆恨みされ、狐だという事が露見して罠にかけられ、襲われて絶命してしまいます。

義宣はとても心を痛めて、城内に「与次郎稲荷神社」を建立し手厚く弔いました。現在でも千秋公園内、久保田城本丸跡に有ります。また与次郎が絶命した山形にも与次郎稲荷神社が有り、参勤交代の時に秋田藩主はお参りをしたと伝わっています。神社の起源が書かれた札には「今なお秋田より参拝者多し‥」と記されていて興味深いです。