「久留里城」は、久留里記によると、「城成就しかば、三日に一度づつ雨降ること二十一度なりしかば」と、風流に謡われた事から「雨城」と呼ばれます。他には、「霧降城」「浦田城」とも呼ばれる千葉県君津市に有る連郭式山城です。 真里谷武田系の武田信長が1456年に築城したと言われています。

「浦田城」の由来は平将門の三男頼胤によって築城された事から来ていますが、伝説の範疇で歴史的事実では無いと言う事で、久留里記でも否定されています。 天守は、独立式望楼型二重三階で、元は二重二階で有った物を、1979年に模擬天守として作られたので、実際の天守とは大幅に異なっています。 その後は、里見義堯氏や黒田直純氏が改築しました。 遺構には土塁、空堀や井戸が残ります。

この城には日本各地に有る「羽衣伝説」が有ります。

「平将門は、狩りの途中で従者とはぐれ、探しているうちに池の畔で水浴びをしている天女を見かけます。その天女があまりにも美しくて、ずっと側にいて欲しくなったので、帰らせまいと思い、傍らの木にかけて有った羽衣を奪って、困惑する天女を宥めて妻にしてしまいました。そのうち、三人の子どもにも恵まれ、落ち着いた暮らしぶりと思われたのですが、天女は息子が遊んでいた箱の中から羽衣を見つけて、置き手紙を残し、天に帰ってしまったのです。将門は天女を懐かしんで祠を建てて祀りました。すると、三男がお参りしている時に、天女から”浦田に城を造って久留里と名付けなさい“とお告げが有ったので、お告げ通り久留里城を建てたと言う事です。」

このような幻想的で美しい話が残っていますが、久留里城も戦国時代をくぐり抜けて来た城ですので、その後の城主は目まぐるしく変わり暴走の歴史と重なります。 まず、千葉の地名の由来にもなっている千葉氏が、房総半島を支配していて没落し、真里谷武田氏が入ります。次は里見氏、北条氏と移り、また、里見氏が奪還します。里見氏失脚後は徳川の時代へ流れていき、1679年には一度廃城の憂き目をみるのですが、1742年に黒田氏が入り、今の久留里城や城下の基盤を造り上げました。 今も横浜に14代目になる黒田氏の子孫がおられるそうです。

久留里城で特筆すべき事ですが、資料館の裏に上総掘りと呼ばれる明治時代に考案された井戸掘り法が紹介されています。これは簡単で、効率的な井戸掘り方法の為、未だに開発途上国での井戸掘り法として採用されています。 簡単な設備で現地の人にも教えると簡単に出来るので、真の開発途上国援助になっていると言われています。