「二本松城(霞ヶ城)」は福島県二本松市に有る「あの光るのが阿武隈川」と詠まれた川を見下ろす鞍石山に、室町時代中期に二本松満泰によって築城された梯郭式平山城です。その後は伊達氏や蒲生氏、上杉氏を経て1627年に入城した加藤氏によって近代的城郭へ改築されます。さらに1643年に丹羽氏が城主の頃、三ノ丸御殿と箕輪門を造り城下町を整備しました。

戊辰戦争で落城し焼き払われ、明治に入った1872年にさらに解体され廃城されました。天守台と石垣、堀が遺構として残り石垣は1993年から2年間にかけて本格的に復元されています。日本100名城の一つで「霞ヶ城」「白旗城」とも呼ばれ、現在は「霞ヶ城公園」として桜の名所となり市民や観光客に人気です。また、「白旗城」の由来は危急の時に源氏の白旗がどこからともなく降って来て加勢すると言う伝説によります。 丘陵と阿武隈川と言う天然の要害を利用した山城で防御に優れていましたが、戊辰戦争の折りに新政府軍からじわじわ攻められ、戦力が不足していた二本松藩は兵士に少年まで駆り出しました。

後に語られる「二本松少年隊」の悲劇です。この藩には火急の際、年齢を二歳上乗せする「入れ年」と言う実年齢より高い年齢の設定をして出兵許可を出す制度が有り、本来で有れば14歳以上の者が兵役に就く事が出来ましたが、実際には最年少が12歳となり年長者は17歳でした。わずか1日で落城し、その悲劇は今も伝えられています。

会津藩の「白虎隊」のような名前は付けられず歴史に埋もれており、「二本松少年隊」と呼ばれ始めたのは、後に行われた五十回忌に刊行された「二本松戊辰少年隊記」によります。 城郭内には築城の際に祀られて埋められた夫婦の牛とされる対の石碑や、詩人高村光太郎の「智恵子抄」の碑文も確かめる事が出来ます。冒頭の「あの光るのが阿武隈川」は、高村光太郎が詠んだもので、「ここはあなたがうまれたふるさと」と妻、智恵子に語りかけるように続きます。さらに城郭内の東入口右側には花崗岩の大きな石が横たわっていて碑文には、

 爾   俸   爾   禄
 民   膏   民   脂
 下   民   易   虐
 上   天   難   欺  寛延己巳之年春三月

と刻まれています。「二本松藩戒石銘碑」で石が据えられている場所は家臣が必ず通る道でした。碑文の意味は 「諸士の俸禄は、これことごとく領民の汗と脂のたまものである。したがって、つねにいたわりと感謝の念をもって領民に接せねば、かならずや天の怒りに触れるであろう」で民衆の側に立っている碑文で当時の封建体制の時勢を考えると異例の事です。名君として慕われましたが、二本松藩だけではなく会津藩、仙台藩もこの勤勉で実直な所を利用され、新政府軍に翻弄されました。