「二条城」は織田信長自ら指揮を執って軍事的必要から足利義昭のためにわずか70日で造られました。信長時代の二条城は、現在の京都丸太町通の北に有る室町通と東洞院通の間に有ったと考えられています。石垣の材料が足りず、京都中の墓石や寺院の石塔等も壊して使った為「神仏を恐れぬ信長さま」と恐れられました。それは「転用石」と呼ばれるのですが、明智光秀も同じ手法で福知山城を建てています。二条城は初めて本格的に石垣を積んだ城として見る者を驚嘆させました。その後義昭は信長へ向けて挙兵し、あっけなく敗退すると共に室町幕府は滅びて、城も解体され安土城へ転用されました。

徳川家康が建てた「二条城」は1601年に天下普請として大名に費用や人夫を負担させて造らせました。現在の京都市街に有ります。完成した二ノ丸で1603年に将軍宣下の祝いを行い、江戸幕府が誕生しました。その後は将軍として豊臣秀頼や後水尾天皇を迎え、家康は大坂夏の陣、冬の陣ともに二条城から出陣しています。しかし3代将軍家光が上洛して以後、幕末まで将軍が二条城に入ることは有りませんでした。この間、留守を預かる城代(後に在番へ引き継がれた)が配置されました。

将軍不在の間、度重なる地震や落雷、火災により本丸、天守閣は焼失、倒壊し荒れるに任せていました。家茂が上洛した時は本丸に入れず二ノ丸を急遽手直しして使いました。 当時の幕府には修復する財源が無く逼迫していたのです。

そして、歴史が大きく動いたのは1867年で、四十諸藩が集まって会議を開き、完全には意見がまとまらない中、15代将軍慶喜によって二ノ丸大広間で大政奉還が行われ将軍職を朝廷へ返上、江戸幕府の時代は終わります。その後の二条城は京都府、陸軍省を経て宮内省の管轄となり二条離宮と呼ばれるようになりました。1893年に、京都御所の北に有った桂宮今出川屋敷を移築して本丸御殿が作られ1915年には大正天皇即位の大典が行われています。現在では京都市が管理し1994年に世界遺産に登録されました。

二条城の二ノ丸は、家康時代に建てられたために安土桃山文化の色が強く国宝となっており、内部は全33室、800畳という広大な武家風書院造りで今見ても圧巻です。随所に施された彫刻や絵画は芸術的価値が高く、また唐門や大広間の天井や欄間、襖絵、障壁画は非常に素晴らしいです。障壁画や襖絵は、安土桃山文化を代表する狩野派の画家たちが描いていて、経年劣化で痛みが激しくなった為、一部の障壁画は複製が展示され、また修理中のものも有ります。

二ノ丸御殿の大廊下は歩くと「キュッキュッ」と音が鳴る「鴬張り」の床として有名です。金属で作った金具と釘が人間の重さで擦れてウグイスの鳴き声のような音を出し侵入者に対する警報として使われました。これは偶然の産物とする説も多く、表に釘を出さないような見た目を良くする工法が偶然、ウグイスの声が出るようになったと伝えられています。