「五稜郭」は函館市の中央辺りの柳野と呼ばれた浅いすり鉢状の湿地帯に有ります。 蘭学者武田斐三郎が設計し1857年に着工され1864年に完成し、1867年10月の大政奉還後は明治政府に移管されて箱館裁判所として使用されました。 その後勃発した戊辰戦争で旧幕府軍榎本武揚らによって占領された後すぐに新政府軍に平定されます。戦火は免れましたが開拓使の本庁が札幌へ移転する事になり、その資材として大半が解体されてしまいました。

現在は星形の堀だけが残されています。その五角形の独特な形は16世紀のヨーロッパで考えられた城塞都市をイメージしていて、その事から「西洋式土累」と呼ばれ、日本では五稜郭と長野県佐久市の龍岡城の二カ所のみです。東京ドーム3個分の面積を有し5つの角は稜堡(りょうほ)と呼ばれていて死角が有りませんでした。

五稜郭内の出入口三カ所には、外部から中の様子を見えなくする為に「見隠塁」と言う土塁が造られ、また五稜郭を形作る土塁は「本塁」と呼ばれ幅約27~30m、高さ約5~7m有り、正面や通路は石垣が積まれています。この石垣の中で正面側の一番上には、石が一列飛び出している所が有り、これは「はね出し」や「武者返し」「忍び返し」と呼ばれていて五稜郭独特の石垣の形状です。

標高は13~16mで本州にある城とは違って平らな為、湿地に有った事も原因で雨水が溜まりやすく、水堀へ流れるように工夫されています。旧幕府海軍副総裁「榎本武揚」は海軍の船「開陽丸」建造に深く携わり、船と共に留学先のオランダから帰ってきましたが、その時の日本は倒幕の動乱の中に有りました。彼は開陽を新政府に引き渡さず品川沖から脱走し函館へ向かい五稜郭を占領します。

榎本は藩籍奉還で失職した武士の救済の為に、蝦夷地を開拓し共和国の設立を目論んでいました。実際に1868年12月25日には共和国設立を宣言し列強諸国は日本にもう一つ政権が存在すると認識していたそうです。頼りの開陽はその時点では日本最強の軍艦でしたが、暴風雨のため沈没してしまい、明治政府は最新型の甲鉄艦ストーンウォール・ジャクソン号をもって攻撃を仕掛けてきます。今の函館山の裏手から山を越えて奇襲する作戦で箱館および四稜郭方面を瞬く間に制圧し、山の裏側は断崖になっており油断していた所を狙われました。

新選組副長「土方歳三」は鳥羽伏見の戦い後、旧新選組隊士を率いて各地を転戦しながら北上し仙台で榎本武揚らと合流します。彼は新撰組時代から実戦において優れた能力を発揮し味方が次々と敗退する中、彼が守った二股口は最後まで陥落しませんでした。二股口の戦いは台場山砲台を中心にした16時間にも及ぶ激戦だったと伝わっています。1869年5月11日箱館は明治政府軍の手に落ち、五稜郭へ総攻撃が開始されます。

この時、土方歳三は箱館奪回を目指し50名の兵と共に五稜郭を出て箱館の市中に向かい、騎馬にて敢然と切り込んで行くのですが銃弾を浴びてその生涯を閉じました。 死を覚悟していた土方は辞世の歌を残しています。「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも 魂は東の君やまもらん」