「今治城」は、城作りの名手、藤堂高虎によって造られた水城で、高松城、中津城と共に日本三大水城の一つに数えられています。 当時、国府城が拠点でしたが、より一層、治世の便利さを考えて計画され、築城されました。特徴は、三重の堀に海水を引き入れて、堀へ直接船で入ることが出来、海上交通が発達していた今治の地形を最大限に生かしていました。また、二ノ丸に藩主館、中堀に武家屋敷、外堀に侍屋敷、城門が九ヶ所、櫓が20ヶ所と非常に広大な造りのお城です。

藤堂高虎が築城の名手と先に触れましたが、彼はその他に、宇和島城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城し、いずれも名城と言われています。高虎の築く石垣は高く積み上げて、堀を何重にもめぐらす独特なもので、どちらかと言うと小ぶりな城を造り、同じ築城の名手で有る華やかな城を造る加藤清正とよく対比されますが、どちらも素晴らしいです。

また、藤堂高虎は、何度も主君を変えた戦国武将として知られていますが、きちんと勤め上げて次へ移っているので、全く遺恨は無く、彼自身「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と言っていたとか。下克上の時代に先を見越して、将来性の有る主君に仕える事が家族の更に一族の繁栄につながるので、藤堂高虎こそ戦国時代の武将そのものと言えるでしょう。 その後、今治城は藩主を変え、明治維新まで松平氏(久松氏)の居城となりました。

2006年に、日本の100名城に選定され、2007年に、江戸時代の史実に基づいて鉄御門と石垣や多聞櫓五棟と共に復元されました。 今治城には、天守が無かったと言う説が有って、それは、天守が一度造られて、約6年後に藤堂高虎の手で解体され、亀山城に献上されたとされている為で、後年残っている基盤から推測したり、設計図から見ても天守が建てられた事を何一つ示していません。

これについて、天守台を築かず本丸中央付近の地盤に直に基礎を敷き建てることで、より整形された矩形を造る必要があった層塔型天守の建造を可能にしたと言う説も有りますが、いずれにしても、天守の存在を示す一級資料や遺構等の具体的な裏付けとなるものは確認されていない為、結論には至っていません。

今治城の再建天守は、当初の建築の実在について明確な資料が少なく、模擬天守であると周知されています。移築した本来のものであった亀山城の天守とは違って、再建天守は望楼型の構造で、大入母屋破風を基部としており、張り出しや出窓など亀山城にはない意匠が取り入れられています。また、天守の位置も二重の櫓の跡に建てられています。