「仙台城」は、仙台市の西部に有る標高144mの青葉山に築かれた山城で、後に連郭式平山城へ改築されます。別名は「青葉城恋歌」で歌われた「青葉城」が有名で、古くは「荒城の月」の歌詞でも偲ぶ事が出来ます。初めは「千体城」と呼ばれ後に「千代城」となり鎌倉時代末期から室町時代中期にかけて、島津氏が居城したと言われていますが伝説の域を出ていません。仙台の地名の由来は正宗=仙人、仙人が住む高台=仙台となりました。

伊達政宗が1600年の関ヶ原の戦いで家康より褒賞として、今の宮城県刈田郡辺りを拝領し仙台城を居城としました。城の四方が広瀬川の渓谷や断崖に囲まれた天然の要害で、正宗は約2年かけて桃山時代の集大成とも呼べる伊達氏62万石にふさわしい壮麗な城へ改築します。本丸は多数の美術品で装飾した千畳敷と謳われた大広間が造られ、懸造りの書院などが建てられました。さすが「伊達男」の語源となった派手好きの正宗らしい凝りようです。正宗の死後は険しい山から山麓へ拠点が移され、二ノ丸が造られて藩政の中心を担いました。仙台城は堅牢な為か実戦では一度も使われませんでした。

明治に入り1871年に廃城され本丸は壊されて、遺構として残っていた二ノ丸も1882年に仙台空襲に遭い、残っていた大手門と隅櫓と共に焼失してしまいました。現在は隅櫓が復元されています。現在は遺構として石垣と土塁、堀が残っており、城跡は国の史跡に登録されて、脇櫓が再建されました。 仙台城は特に石垣が見事で本丸北側で最も高い部分が17mも有ります。何度か修復されておりますが当時の工法に忠実に従って工事が行われています。手法は切込接で隙間無く計算された石が積み上げられ、隅の算木積は「江戸切り」と呼ばれる石の角に丁寧な加工を施しているもので稜線を際立たせる効果が有ります。

仙台城は大きな規模を保ちながらも天守が築かれませんでした。五層の天守を造ろうとした形跡は有り、数々の古書や模型から天守の姿が浮かび上がってきます。しかし伊達氏は外様大名のため勝手に造る事は出来ず幕府の許可が必要です。外様大名の改築や築城はほとんど許可されなかった為、城のシンボルとも言える天守造築の申し出自体が幕府に対する挑発と受け取られかねない為、断念したと伝わっています。

正宗と言えば独眼竜ですが、隻眼の英傑に対してこう呼ぶ事が有り、江戸時代後期の頼山陽の詩では政宗を称して「河北終に帰さん独眼竜」と記し、注釈として独眼竜が唐の英雄「李克用」のあだ名と書き入れました。しかし漢文などの学が有った正宗自ら独眼竜を称していたとされています。それは李克用の部隊色で有る黒を自軍にも用いて「鴉軍」と呼ばれた事にも縁が深そうです。また早くから印に「龍」の文字を使っていました。 「曇りなき心の月を先立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く」正宗、辞世の句です。