「松山や秋より高き天守閣」松山の歌人、正岡子規も多く歌に詠んでいる伊予松山城は「勝山城」「金亀城」とも呼ばれる1602年に築城された平山城で、姫路城、和歌山城と並ぶ日本三大連立式平山城に入ります。 高さを保った石垣と櫓の重なりが壮観な眺めで、総桧造りにこだわった天守閣も見事です。天守からは15万石と呼ばれた城下を一望でき、道後平野や瀬戸内海の島々も一望できる名城です。

秀吉の小姓だった賤ヶ岳の七本槍の一人、加藤嘉明が26年もの歳月をかけて完成させましたが、彼はその直後せっかく完成させた城を後にし会津若松へ転封を命ぜられます。 その後に入城した蒲生忠知が藩主となりました。

しかし、当初は名君と呼ばれていた蒲生忠知ですが、世継ぎに恵まれず惑乱した忠知は、城下の妊婦を捕らえさせ城内の大石の上で腹を割いたと言う血なまぐさい伝説が残っています。まな板石と呼ばれている石の半分が真偽は定かでは有りませんが現存しています。

他には忠知が病で伏せっていた時に、堀の蛙の鳴き声があまりにもうるさかったので「やかましい鳴くな!言いつけを守らねば堀を埋めるぞ!」と叫ぶとそれから一切鳴き声が止んで、鳴かない蛙になったという何だかほほえましい伝説も有ります。

忠知は1634年に参勤交代で滞在していた京都の藩邸で急死しました。31際の若さで兄の忠郷と同じく疱瘡が死因と言われています。それによって蒲生氏は断絶しました。前領主は悪しざまに言われるのが通例で伝説は当てにはならないと愛媛県史には記されています。その後、1634年に松平家(久松家)が入城しました。

昭和の戦災などで、小天守や櫓は失われてしまいましたが、1966年に全国にも例がない総木造による復元が進められました。 さらに近年、平成の大改修が行われ、天守を中心に瓦や壁、シロアリ対策もされました。

この工事の過程で江戸時代に下見板の裏面へ墨で描いたと思われる侍の似顔絵が発見され話題になりました。下見板が使われていた場所は大天守の2階で1848年~1854年の再建時の落書きだと考えられています。また、似顔絵の主は紋の付いた裃(かみしも)を着ている事から指揮、監督をしていた作事奉行だと想像されていて一見の価値有りです。天守閣内に展示してあります。

他には松山城には社寺の正面様式を持つ天神櫓が有り、これは、松平氏(久松氏)の祖先とされる菅原道真公を祀るための櫓です。松山城は「勝山」に建てられている事から受験に「勝つ」と言われていて学業成就などに霊験あらかたで縁起が良いとされています。 「永き日の山越えて伊豫の城見ゆる」勝山を見上げて松山城に思いを馳せる正岡子規の気持ちを想像するのも風流です。