「伊賀上野城」は、三重県伊賀市に有る白亜三層の梯郭式平山城です。別名に、「白鳳城」が有り、1585年に秀吉の命で、大和郡山から転封して来た筒井定次が築城しました。城は、上野台地の北部の標高184m丘陵に建てられ、周りを天然の要害である数本の川に囲まれています。

秀吉は、「伊賀は秘蔵の国なり、文武の技量なくしては治め難し」と、定次を励ましたと言います。その後、家康の代になり、彼はキリシタン信仰の噂と執政の責任を問い、筒井定次の領土を没収し、築城の名人藤堂高虎に大々的な改築を命じます。

しかし、天守は完成間近にして、暴風雨により倒壊の憂き目をみました。180人もの犠牲者を出し、その後、豊臣家が滅びた為、戦略的必要が無くなった為と、江戸幕府が新しい城普請を厳しく取り締まった為、再建されず時代は流れて、1935年に上野市出身の川崎克代議士が私財を投じ、さらに浄財によって木造三層の天守が建築されました。

明治の時代には1989年に東大手門、さらに西大手門が解体されています。今では武具蔵のみが一棟残存していて、伊賀市文化財に指定されています。城域一帯は、上野公園として整備され、この辺りに松尾氏が住んでいた縁から、松尾芭蕉を祀る俳聖殿や芭蕉翁記念館が造られて、芭蕉の生家も見学する事ができます。他には伊賀流忍者博物館が観光地として賑わっています。

今は歴史を偲ぶのみとなりますが、伊賀上野城は時勢に翻弄された城でもあります。筒井定次時代は、大坂城を守護する出城として機能し、藤堂高虎時代は大坂城を攻略する城という正反対の役割を担いました。

家康の命を受けて、高虎は美観よりも実践重視の設計をし、伊賀忍者に58カ国148城の要害や、縄張り図を盗ませて改築の参考にしたと伝えられています。本丸を西に広げ、特に大阪方に備える為に、西方には30mも有ったと言われる広大な高い石垣を組み上げてめぐらし、城下町を南へ移して完全武装した軍備の町を建設して備えました。

これを見た家康は、大坂方と一戦交える時は、高虎と共に上野城に籠城すると言っていたそうです。 1854年6月に、伊賀上野地震により、城はもとより城下にも多大な被害があり、この時、城内のほとんどの建築物が倒壊して、石垣の一部が崩れました。 一部が補修されましたが、当初のものが現存するのは太鼓櫓と菱櫓のみになりました。

伊賀上野城を管理する伊賀文化産業協会専務理事の福井健二氏(76)は、50年以上にわたって、伊賀上野城の研究と調査を重ねてきました。その総まとめとして、「上野城絵図集成」と「藤堂高虎公遺訓二百ケ条」を出版したとの事で、歴史的にかなり貴重で理解しやすい書物として期待されています。