「備中松山城」は岡山県高梁市に有る、標高430mの臥牛山に建てられた重要文化財の近世城郭です。地元の人は臥牛山を「おしろやま」と呼んで親しんでいます。現存する天守を持つ12城の中では日本一の高さを誇るため、廃藩置県の時に廃城を逃れました。天守の他には二重櫓と土塀の一部が残っています。

岩村城、高取城と共に日本三大山城の一つに挙げられていて山全体が要害、かつ砦の役割を果たしていました。天守は二層二階と規模は小さいものですが、高くて険しい山中に建てられた城では十分なものだと言えます。

小ぶりの城ですが、武者窓のある唐破風が威風堂々としている天守と、その奥に現存する二重櫓の眺めが素晴らしいです。

城内に展示されている装束の間は、城主が籠城の時に使う部屋で、床下には忍びの者が入れないように石が詰め込まれて有り、落城の際には自決する部屋とされていました。

城へ行くには途中までは車で上れますが、途中からは山道を歩かないといけません。途中の立て札には「登城心得 あわてずゆっくり歩むべし 城主」と書かれていて、周りの景色を楽しもうと言う気持ちになります。赤穂浪士の一人、大石内蔵助が途中休憩した腰掛け石が城まで約900mの所に有り、歴史に思いを馳せる事が出来ます。

歴史は1240年代の鎌倉時代にまで遡り、山陽と山陰の国境の戦略的要所として激しい城取り合戦が繰り広げられました。東には宇喜多氏、北は出雲の尼子氏、西には毛利氏と大身の大名に囲まれていて、戦乱が頻発し多くの兵士が命を落としました。

ついには三村元親が城主だった時代に起こった備中兵乱で、元親が毛利氏に離反し織田信長側についた事で内部分裂が起こり、最終的には毛利方の小早川隆景により城は落とされて元親は自害しました。その後、毛利氏の所有する城となりました。

戦乱以外の伝説には、ガラッと変わって「阿里佐淵」の悲恋話が有ります。村の娘、阿里佐と茂作は恋仲でしたが、備中松山城から三村家の息女「鶴姫」が阿里佐たちの住んでいる村を訪れました。鶴姫は絶世の美女と名高く、その美貌は遠い中国にまで轟いていました。茂作は一目で鶴姫に心を奪われて放浪の旅に出てしまいます。

その帰りを待ち続けていた阿里佐は、数年後、清流の淵に身を投げてしまします。村人たちはけなげな阿里佐を哀れに思い、魂を慰めるために祠を建てて供養しました。 その後、阿里佐の祠は、恋の神様として縁結びや悲恋に悩む恋人たちの守り神となっています。