「八王子城」は東京都八王子市に有った中世の典型的山城で、八王子市文化財課が管理する城跡の範囲には、南の斜面等を含む場所が含まれていない為、実際の史跡としては狭い範囲となっています。その為城郭内に残る、石垣や曲輪、御主殿跡の他、住宅地にも遺構を確認することが出来ます。後世に石垣と虎口、曳き橋が再建されています。

また、日本の名城100に選ばれており、日本五大山岳城に選ばれている国の史跡です。今の城山に築城され標高は466m有り、それを生かして石垣で固め城の部分だけでも40万坪の規模を誇りました。また1587年の築城の際、北条氏照の家臣が安土城を訪れて築城の参考にした為、関東の安土城と呼ばれています。北条氏の居城する小田原城の支城で関東の西側に位置する為、軍事上の重要な拠点でした。

この城の縄張りは川を上手く利用した東西に約3km、南北に約2.5kmの広大なもので、山の地形を要害都市として活用し、周辺には多くの砦を巡らせています。要所には曲輪を配し南側は強固な石垣で固めて簡単には尾根を越えられないように工夫されていました。あまりにも城郭が広大なため、未完成だったと言う説まで有ります。

八王子城が戦場になったのは小田原討伐の時です。前田氏、上杉氏、真田氏の軍勢15000人に包囲され1日で落城してしまいます。それは城の弱点をよく知る普請奉行の平井無辺が裏切って搦め手口を攻撃するように手引きした為で、その手引きが無かったら落城しなかったはずでした。

わずかにいた守備兵は挟み撃ちにされてしまい、農民などの非戦闘員と女性と子どもが籠城していた為、悲しくも犠牲になってしまいます。武将の妻たちは足手纏いにならぬよう身を隠すように川に身を投げて自害してしまいます。その為川の水が赤く染まり、それは3日も続いたと伝えられています。

その方を聞いた北条氏照は床を叩いて嘆き悲しんだと伝わっています。その後領民が、この川の水で米を研いで炊くと飯が赤くなる為、領民たちは供養のために落城した日の毎年6月23日には赤飯を炊いて犠牲者を悼みました。城自体が要害で有った山城の為、攻撃した豊臣側にも犠牲者が多く、どちらにも悲惨な結果を生みました。

また、この城山川には大量の蛭が発生し、その蛭は領民たちには害を成さず、敵対していた加賀や越後、信濃の者には吸い付いて血を吸うと怖れられました。 さらに川べりの草むらでみかけるクモは子持ちが多く、それは入水した北条氏照の側室、お豊の方の生まれ変わりであると信じられ地元の人たちに手厚く保護されました。

後に八王子を治めた家康によって、八王子城はわずか3年で廃城となりますが、八王子城の戦いでは非戦闘員の犠牲者が多数出て歴史上類を見ない悲惨さで有った事は哀悼の意と共に後世に語り継がれています。