徳川御三家の一人、紀州徳川家が居城としていたのが「和歌山城」です。徳川吉宗の居城としても有名で、元は秀吉の弟、秀長が1585年に着手し、家臣の桑山重晴、関ヶ原で功の有った浅野幸長らが完成させました。1619年からは紀州徳川家が入り、幕末まで南海地方平定の礎とされました。

建てられている丘陵は、虎が伏せて寝ているように見える事から、「虎伏山」と呼ばれていた為、「虎伏城」とも呼ばれています。お城に多い人柱伝説ですが、人柱になったのが、お虎という娘だった事を由来にする説も有ります。その他に、「竹垣城」の別名も有り、遠くから眺めると天守が三の丸の上方に有る竹林に囲まれているように見えた事が由来です。

1600年に浅野幸長が入城した時には、城郭の修復と拡張に力を入れました。西に天守曲輪、東に本丸、丘陵を囲むように山麓に曲輪を作り内堀を設けるなど、約19年かけた大がかりなものでした。 城の構造は大天守、小天守、台所、乾櫓、二ノ門櫓、楠門を多門で連結し、楠門を閉じるだけで要塞化出来るように造られています。

天守は1846年の落雷により焼失しましたが、通常再建を許されない所(江戸時代は城の改修、改築に許可が必要でかなり厳く許可が出なかった)、紀伊御三家の居城で有ったので難なく許可され、1850年に再建されました。 この時の天守は、和歌山大空襲で焼失してしまいました。1958年に鉄筋コンクリートで再建されています。

二ノ丸にあった御殿の一部は、1885年に軍部によって大阪城に移築され、1931年から大阪市の迎賓館として使用されていました。戦禍を奇跡的にくぐり抜け焼け残っていたので、米軍が使っていましたが1947年に失火で焼失してしまいます。

また、二ノ丸には表、中奥、大奥が有り、表は班長として使用され、中奥は藩主の執務に使われ、大奥は正室、側室たちの居住する場所でした。大奥が有るのは、和歌山城以外には江戸城と名古屋城のみです。現在の二ノ丸御殿の表と中奥に当たるところは広場として開放され、大奥の場所は芝生になっていて、ドラマのような藩主をめぐる女性たちの葛藤が有ったのかどうかも想像出来ない空間になっています。

また、石垣作りに特徴が有り、桑山氏時代の緑泥片岩を使用した野面積みと言う大小の石を組み合わせる方式と、浅野氏時代などの砂岩を用いた石と石をピッタリ合わせるような打込はぎ方式が見られ、さらに徳川吉宗以降は、花崗岩の巨石が好んで使われ、打込はぎ方式が主流になっています。これは、現在の二ノ丸御門の辺りに見る事が出来ます。