「唐津城」は、佐賀県唐津市に有った城で、別名、「舞鶴城」と呼ばれ、その名は天守を鶴の頭に見たてると、左右の「虹の松原」が翼を広げた鶴に見える事から由来しています。 天守の形式は、複合式望楼型五層五階地下一階で、天守の存在には、懐疑的な意見も有りますが、現存するものは、1966年に再建された模擬天守です。

1608年から、秀吉の家臣、寺沢広高によって築城され、江戸時代を通じて唐津藩の藩庁となりました。その後の城主は、寺沢氏、土井氏 水野氏、小笠原氏で明治まで続きます。 寺沢家改易後は、代々譜代大名が治める事となりますが、唐津城主は、後に、幕府の重職に就く事が多いようです。築城に際し、東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐように、流路を変更する大改造を行いました。

また、廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城した名残として、柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など普請に協力した大名の領地名が堀の名に残されています。この為、普請が早かったと伝えられています。唐津湾に突き出た満島山上に本丸が配されて、西側に二ノ丸と三ノ丸が配された連郭式の平山城です。北面は唐津湾に面するため海城とも呼ばれ、山口県の萩城とともに現在も直接海にそびえる石垣がみられます。

築城当初は、天守が存在していたと言われる事も有りますが、1627年の幕府の記録には、天守の存在は記されていない他、天守の存在を示す資料は確認されていません。天守を描いた絵図や設計図もなく、現在の天守は慶長期の様式で建築されていたと想定して、1966年に造られたものです。

広高は、松浦川の流路変更に見られるように、土木事業に長けており、防風林として松原の保護育成を行いました。後に、これが、日本三大松原として、今日に残る名勝「虹の松原」となっています。 広高の子の堅高は、天草の乱の時に、一揆で攻められた騒動の責任を取らされ、領地を没収されました。堅高は寮内の凶作や減封、キリシタンへの弾圧などを苦に、1647年に、江戸藩邸で自殺してしまいます。また、嗣子がなかったために、寺沢家は断絶となりました。

1871年、廃藩置県により廃城となり、民間へ払い下げの為、解体されましたが、1877年には、舞鶴公園として整備され、開放されています。1966年、文化観光施設として、五層五階の模擬天守が築かれ、門、櫓も同時に再建されました。1989年、唐津市役所前に肥後堀と石垣を復元。1992年、二ノ丸跡に時の太鼓を復元、1993年、市役所付近に三の丸辰巳櫓が復元されました。