「大喜多城」は、「大滝城」「大多喜城」とも呼ばれる連郭式平山城で、1521年に真里谷信清によって築城されました。その後、本多忠勝や阿部正次などによって改築され、現在は、千葉県の指定文化財となっています。明治に入り、1871年に廃城となりました。

最近まで大喜多城は、家康によって大喜多支配された時の本多氏が支配していた時の城と考えられてきましたが、近年の発掘によって大規模な遺構が発見され、本多氏以前の真里谷氏時代の城の存在が明らかになっています。 しかし、1544年に正木時茂によって真里谷氏は城を奪われ、以後、しばらくは正木氏が支配し、上総国東部支配の重要な拠点とされました。

1590年、家康が支配するようになると、家臣の本多忠勝が城主となり、政敵の北上を阻止する為、城に大々的改築を行いました。また、永く城主を務めた本多氏の中でも、合戦における忠勝の活躍は、敵味方を問わず尊敬され、さらに、家康からは、「まことに我が家の良将なり」と激賞され、「蜻蛉が出ると蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と、忠勝を詠んだ川柳も有り、勇敢さが伺えます。

その本多氏が、大喜多城を改築して、三層四階の近代的城郭となり、城下町も整備され、今の大喜多城の始まりとなりました。 しかし、1619年に藩主の転封の為、一時廃城になり、次に入城した阿部氏へ幕府から再建するように命が下されたものの、「一重の塀もないありさまで、門や櫓などもない」という当時の記録の通り、大喜多藩が縮小され、資金不足も有り、しばらく荒廃した状態のままで長く治世が行われていました。

幕府が地方の大名を様子を忍びを使って調査していた時の記録「土芥寇讎記」に、「幕府から大喜多城の再建命令が下されたにも関わらず、命令を履行していない。塀もない状態だ。ましてや門や櫓などあろうはずがない」と記されています。さらに、天守は、1842年に焼失し、2年後に天守の代わりに二層の神殿が建てられ代わりとされていたようですが、かなり簡素なものだったと推測されています。

明治の廃城令で建物類は取り壊されてしましたが、1966年に城跡が千葉県の史跡に指定、1975年に古文書の図面や絵図を基にして天守が再建されました。 大喜多城には天守が無かったとされる説も根強く、発掘調査時に遺跡が見つかっていない事からそう判断されるが、天守を書いた二種類の設計図が発見されており、三層天守絵図は残っていますが、他の資料に天守の設計図が無いものも有るため、判断が難しいとされています。