「大垣城」は岐阜県大垣市に有る連郭輪郭複合式平城で、1500年に竹腰尚綱によって揖斐川(牛屋川)東河岸にあった牛屋に築かれた説と、1535年に宮川安定が大尻に築いた説が有ります。1560年に氏家直元が城主となり、何代か城主が変わり1588年に一柳直末、または1596年頃に伊藤祐盛が城主の時に、改築が行われ天守が築かれたとされています。

1600年の関ヶ原の戦いの際に、城主であった伊藤盛宗は西軍に属したため、石田三成らが入城して西軍の根拠地とされました。その後、西軍本隊は関ヶ原に移動し、城内には福原長堯らが守将となって残ります関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され落城してしまいます。

その時の出来事を石田三成の家来、山田去暦の娘おあんが年を取ってから、毎日のように子供達に語りましたが、その話を記録したのが「おあむ物語」です。ずっと護って来た城が兵士に囲まれて、櫓が揺れるほど攻め込まれて恐ろしく生きた心地もしなかったと、落城してしまう城に居た時の話を臨場感豊かに話して聴かせたと言います。

現在、大垣城本丸腰郭、天守の西側に「おあんの松」が有ります。(二代目で植え継ぎ)おあん様が、天守から此の松を伝ってお堀をたらい舟で城外に逃げ出した。と語り伝えられています。

1945年7月29日の大垣空襲により、天守や艮櫓などが焼失しましたが天守は1959年に、乾櫓は1967年に鉄筋コンクリート構造で外観復元されました。2011年2月22日屋根瓦の葺き替えと外壁改修工事が完了し、外観が史料を基に焼失前の外観に近くなるように改修されました。しかし、中身はハイテクで、復興天守には関ヶ原の合戦を石田三成・徳川家康両者のモノローグでリアルタイムに追ったムービーなど様々な動画コンテンツが閲覧出来ます。

天守が焼失してしまった時、この城伝説になっている人柱になった山伏の話が有ります。山伏が持っていた「金剛杖」が、天守と焼けてしまったという話です。山伏は偶然通りかかり人柱にされてしまうのですが、一緒に金剛杖も埋められたはずなのに、何故か天守と焼けてしまったと言う話と、昔から天守に奉納されていた金剛杖は、松平越中守の武運長久を祈って、天守閣上層に金剛杖を置き歴代相伝えて守れば、永遠に城の守護神になる、と言って旅の導師が自ら人柱になったということを杖の頭部に梵字と哭文で書かれていたという、からくりのような話が伝わっています。

他には、三成が大狸に化かされて家臣に命じて討ち取らせたけれど、狸とあだ名された家康には敗北した話や、大きい石が引いても引いても動かず、殿様が長刀で鼓舞したら運べたという伝説などが伝えられています。