姫路城は、別名「白鷺城」(はくろ・しらさぎ)でも有名で、日本の城に興味が無い人でも知っているほどです。姫路の名の由来は、天守の有る「姫山」の古名が「日女路(ひめじ)」と称されていたからで、「日女道丘(ひめじおか)」とも言いました。また、姫山には桜が多く植えられていた事から「桜木山(さくらぎやま)」転じて「鷺山(さぎやま)」と呼びました。

地図等の文献によっては、天守の有る丘が姫山で、西ノ丸が有る丘を鷺山と呼ぶ事も有りました。漆喰で塗り込められたまばゆいばかりの白壁から白鷺が連想され、また、白鷺が多く生息していた事や、烏城と呼ばれた黒壁の岡山城との対比など由来は枚挙に暇が有りません。地元では「しらさぎ」が通称のようです。秀吉が居城して出世したから出世城など、深刻な落城の危機が無かった為、不落の城というきらびやかなイメージが多くあります。

江戸時代以降の天守が現存する12城の一つです。1346年に赤松貞範が築城し、その後は黒田重隆、職隆親子が拡張し、関ヶ原の後に入城した池田輝政によって今の姿に近い状態へ拡張されました。五層六階地下一階の連立式望楼型の天守を持つ城です。「国宝四城」や「三名城」「三大平山城」「三大連立式平山城」にすべて名前が上がっています。

太平洋戦争中、姫路城の白壁は非常に目立ち、更に陸軍の部隊が置かれていた為、黒網で城を覆い隠し爆撃から逃れようとしましたが、1945年の姫路空襲で城下は焦土と化しました。城内にも着弾したのですが不発、あるいはすぐに消火され大事には至らず、翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、姫路市民は涙したといいます。

1956年より天守の大修理が行われ、解体と修復が行われました。構造物に様々な文書が書き込まれており、姫路城の研究に役立てられました。また、天守は昔から傾いていたと言う伝説が有り、「東に傾く姫路の城 花のお江戸が恋しいか」と詠われています。実際にも、長年の天守の重みに耐えられず、補強の為、姫山に新しく強固な基礎がコンクリートで築かれて、この時に秀吉が城主だった頃の天守の礎石や石垣が発見されました。

天守を支える東西の「心柱」とよばれる巨木の西側が腐っていたため、新しい心柱を紆余曲折の末、岐阜県中津川市から探し出して、これと笠形神社の檜とを継ぎ合わせて使用される事に落ち着きました。これらの檜は姫路市民総出で大手前通りを祝い引きされ、姫路城内へと運び込まれました。姫路城が市民に深く愛されていている事が判ります。

天守の修理に際しては、重量低減の為に軽量瓦や耐震補強のための金具類が新たに使用されて工夫されています。一方、石垣はそのままの姿で当時を偲ぶ事が出来ます。