「宇和島城」は四国の愛媛県宇和島市に有った城で、江戸時代は宇和島藩の藩庁となりました。リアス式海岸の最深部に有る板島丸串城の跡に、地形の利を生かしながら築城の天才の誉高い藤堂高虎によって、1596年から6年かけて築かれた近世城郭です。

標高74mの丘陵と、山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸、北に藤兵衛丸、西に代右衛門丸などを巧みに配置し、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城で、東側に海水を引き込んだ水堀を設置し、西側半分が海に接しているので優れた「海城(水城)」でも有ります。現在見られる天守などの建築物は、伊達氏によるものですが、縄張りは藤堂高虎の考えた当時の形が活用されています。

五角形平面の縄張り「空角の経始(あきかくのなわ)」は四角形平面の城と錯覚させる高虎の設計で、忍びの者までも四角形だと攪乱させました。藤堂高虎の発想は面白く、攻撃する側から考えた縄張りを造った為、五角形の死角となる一辺を上手く使ってまるでからくり仕掛けのように防御、攻撃、物資運搬に用いました。

さらに、城の背後には原生林の中を抜ける間道が有り、北西海岸の隠し水軍の基地などに通じていて天然の要害が揃い万全の体制でした。宇和島城には「空角の経始」、間道、隠し水軍などの優れた高虎の築城術がすべて見事に生かされた城だったのです。 城を囲む五角形の堀は、高虎の後の大名にも代々受け継がれましたが、現在は残念ながら堀も海も埋め立てられています。

天守は三重三階層塗籠式の層塔型で、外観は長押形で飾られた白漆喰総塗籠の外壁仕上げに一重目に比翼千鳥、二重目に千鳥破風、三重目に軒唐破風を配置した壮麗なものとなっています。戦闘を想定して城を造るのが上手かった高虎ですが、壮麗な城が大好きな秀吉の期待にもよく応えて居た事が伺えます。

藤堂高虎は同じ築城の名手、加藤清正とよく比較されますが、清正が扇の勾配と呼ばれる石垣のそりにこだわったのとは逆に、一番の違いは石垣を高く積み上げた事と、堀に工夫を凝らした事で知られています。

また、「出世払い」は高虎が若い頃、お金は無かったけれどとにかく空腹で、餅屋に入って有るだけの餅を食べ尽くしてしまい、餅屋の主人に出世して払うと言ったのですが、主人も高虎の食べっぷりに喜んでお代は要らないと快く送り出してくれたという話から来ています。 その後、大名になった高虎は約束を忘れず餅屋の主人に大量のお礼をしたのだと言われています。