「小倉城」は、福岡県北九州市に有る「勝山城」、または、「指月城」とも呼ばれる輪郭式平城です。小倉城の興りは、13世紀中頃、今の北九州市に有る紫川の河口西岸に有った丘陵に築かれたのが初めとされています。1587年頃に毛利勝信が今の縄張りで総石垣造りの城郭へ改築し、1602年頃から細川忠興が特徴有る南蛮造の天守などを建てました。

天守の構造は、連結式層塔型四重五階で、五層目が下の四層目より大きく黒く塗られて、入母屋破風を除き、破風が一切無く、当時は唐作りと呼ばれた全国にも類を見ない珍しいものでした。細川忠興は城下町繁栄の為に諸国の職人や商人を集めて、彼らの保護政策を実施し、城下は賑わいます。

紫川を挟んで西側が侍町、東側は町人や下級武士達の町として繁栄し、さらに、外国との貿易にも力を入れていた様です。この頃、忠興は無病息災を祈り、同時に城下町繁栄策のひとつとして、1617年に祇園神社(現在は八坂神社)を建立し、京都の祇園祭りを小倉に持って来ました。それが、現在旧六月に行われている「小倉祇園」です。

1632年、細川家が肥後国に移封されると、譜代大名として小笠原忠真が入国し、以後、小倉藩藩主の居城となりました。天守は、1837年に本丸御殿と共に失火にて焼失し、永きにわたって再建されませんでした。

幕末1863年頃、外国船の威嚇などに対して海防強化の拠点として、砲台を建設して備えました。 この砲台は、後に四境戦争と呼ばれる1866年の第二次長州征討で使われ、幕府軍と長州藩は激戦の末に、ついに、小倉城に自ら火を放ち藩主を熊本藩へ匿いました。

これは、幕府軍の総督で有る小笠原長行が、諸藩の人心を集められず、長行の臆病な日和見ぶりに激怒した細川家をはじめとする幕府軍諸藩が撤兵してしまい、徳川家茂の訃報を聞いた長行が、これ幸いと小倉城に放火し、敵前逃亡した為です。この敗北によって、幕府の権威は大きく失墜し、翌年の大政奉還へ弾みがつく事となりました。

「百万の大軍、恐るるに足らず。恐るるべきは我ら弱き民なり。ひとりひとりの心なり」と、丙寅丸の舳先で謡い、結核の身体をおして指揮を執った高杉晋作とは対照的です。 晋作は、戦利品として小倉城の櫓に有った大太鼓を持ち帰り(直径110㎝、390kg)、山口県下関市の厳島神社に奉納しました。

そして、迎えた明治の代、さらに昭和になり1934年には、前出の祇園神社が城内に遷座され、1959年に鉄筋コンクリート構造で天守が外観復刻されました。2004年には忠興時代のものと考えられる篠崎口から清水門の外堀で、畝堀と堀障子が発見され、当時を知る貴重な発見とされました。 また、2007年には瓦屋根約9万枚を全面葺き替えしており、城は激しい戦いが有った関門海峡を臨んでいます。