「小田原城」は、別名「小峰城」「小早川城」とも呼ばれる複合式層塔型三重四階の平城で、難攻不落の城と呼ばれていました。 古文書によると、1634年に、三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具や調度品を鑑賞し、相模湾への開けた展望を楽しんだという記録が残っています。

1703年の元禄大地震により、小田原城は建物のほとんどを倒壊や焼失の憂き目に遭いますが、天守閣は1706年に再建され、1870年の廃城となるまでその雄姿をそびえさせていました。

小田原城の起源は、1180年の石橋山合戦で源頼朝の危機を救った土肥一族が合戦後の功労賞で得た領地に築城したのが始まりとされます。その後、土肥氏の失脚後大森氏が入城し南関東を掌握し繁栄します。

1495年、大森氏頼は、北条早雲の策略にかかり城を追われます。まず、早雲は氏頼と懇ろになり、やがて、鹿狩りを口実に自分の変装した兵士を大森領である箱根山中に入れて、夜半に奇襲を仕掛け、狼狽する氏頼を追い出しました。その後、約100年の間、北条氏の居城となり、この北条氏は、鎌倉の北条氏と区別され、小田原北条氏と呼ばれています。

北条氏は、小田原城を改築し、最盛時には高さ27mの三層大天守と小天守を有し、城郭、外郭は東西3㎞南北2.2㎞にもなりました。 その後、1561年に、上杉謙信の攻撃をかわし、さらに、武田信玄の火を噴くような攻撃も受けますが、物ともせず、その事から難攻不落の名城と畏れられるようになりました。

後に、城攻めの名人秀吉の手も煩わし、業を煮やした秀吉は1590年に小田原城西の笠懸山に一夜城と呼ばれた石垣山城を建立、大坂から淀君を呼びよせ諸将にも妻子を呼ばせて賑やかに酒宴を開き、いかにも寛いでいる様子を見せつけながら、周りの城を次々に削り取って行き、もはや根比べだったのですが、小田原城は堅牢で食料にも不自由なく最終的には自軍の約10倍の22万兵に包囲されながらも余裕に見えました。

しかし、城内では連日軍議が行われていて降伏か徹底抗戦か全く意見がまとまらず、この様子から物事が決まらないことを小田原評定と呼ぶようになりました。

籠城100日余り経った時、城主氏直は秀吉に投降します。その後、徳川の城となり、大久保氏が入城しました。大久保忠世は土塁で出来ていた小田原城を石垣造りの近代城郭へ改修し、城は栄華を極めました。1594年に忠世が没して嫡男忠隣が跡を継ぎ、六万五千石を拝領しましたが、1614年に忠隣の家康や幕府のに対する不遜な態度が災いしてか改易となり、それに伴って城は三の丸のみにまで縮小されました。

現在の天守閣は、1960年に小田原市制20周年の記念事業として鉄筋コンクリートで宝永時代の再建時に造られた設計図や模型に忠実に再建されています。