「岐阜城」は、かつて「稲葉山城」と称し、戦国時代には、斎藤道三の居城でも有りました。天下に岐阜城の名を知らしめたのは1567年、織田信長がこの城を攻撃し、この井ノ口と呼ばれていた地方一帯を平定すると同時に、地名も「岐阜」と改めて、天下布武の始まりの地とした事からでした。

岐阜城は、金華山に築かれた山城で、山頂からの眺めは名古屋を見渡せるほど広大な景色で、天下統一の野望を燃やすには十分すぎる眺めであったようです。正室の父、斉藤道三が以前住んでいた岐阜城を攻め落とす事に躊躇しなかった信長は、それからも領地を広げて行きます。

信長は新しい感覚と経済に明るく、城下町の繁栄の為に市場税の免除を行い、「楽市楽座」を推し進めて繁栄させたので、宣教師ルイス・フロイスに「人口は八千ないし一万人、バビロンの混雑」のようだと言わしめました。信長が「本能寺の変」で自害してしまうと秀吉は、1592年、信長の孫、秀信を岐阜城主にして入城させました。

しかし、関ヶ原の合戦で、秀信は家臣の反対を押し切って西軍に与した為、東軍に火の噴くように攻撃されて落城し、家康は因縁の城として廃城としました。

険しい山の山頂に建築された城であったため、平地はほとんど無く、多数の兵を集めて攻撃を仕掛けたりする事は不可能でした。その地形を突いて、竹中半兵衛が16名で城を陥としたとされますが、あながち嘘ではないのかもしれません。

そんな天下布武の象徴で有った岐阜城の現在の姿は、1956年に岐阜城再建期成同盟によって復興されたもので、この時の費用は浄財や寄付によって、必要経費2000万円のうち1800万円がわずか四ヶ月で集まり、周囲の関心の高さをうかがわせました。

それより先立つ事、46年前の天守復興工事の際には、1910年には長良橋の廃材が利用され、岐阜市保勝会と岐阜建築業協会などの労働奉仕により再建され、県民の城に対する愛情が並々ならぬ事を物語るエピソードとして語り継がれています。しかし、この時に石垣はかなり補強されましたが、当初より小さく組み直してしまったとの事です。天守台の新しく組まれた石垣の下に色の違う石で出来た当時の石垣が今も残り、年代を感じさせます。

平成の大改修により、三層の天守(復興)と模擬隅櫓が復元され、城内は史料展示室や展望台として多くの人に親しまれています。 また、金華山の山頂部のいたる所で岐阜城の遺構を見ることが出来ます。

2011年には、金華山麓から山上の約209ヘクタールの城跡が「近世城郭の成立を考える上で重要」で有ると「岐阜城跡」として国の史跡に指定され、さらに2012年には発掘調査で信長時代の遺物と推測される牡丹と菊の意匠の瓦の一部は発掘され、金箔が貼られていたと言う分析結果が出ており、ますます県民の関心が高まっています。