「岡山城」は黒い板張りの壁から「烏城(うじょう、松本城は烏城からすじょうと読む)」金の瓦が葺かれている事から「金烏城」とも呼ばれる岡山県岡山市に有る梯郭式平山城です。

宇喜多直家によって築城された石山城を基に、その子秀家が跡を継いでさらに拡張されて造られた岡山城は、普請好きの秀吉が築城を指導したと伝えられています。石山城の本丸と二の丸を西側にし、新しい本丸を東の岡山に構築して北端に天守閣を築きました。この時に城は「岡山城」と名前を変え、築城と同時進行で整備された城下町も岡山と呼ばれるようになりました。

総石垣造りで、西から南面に向かって堀を造り、その南に外郭を設置しました。また、要害を造るために城の北方を流れていた旭川を工事して、城郭の北から東へ沿って流れるようにしました。さらに、南に沿って通していた山陽道(西国街道)を、旭川を渡ってこの曲輪を縦断するよう道筋を変更し、国内の有力商人をこの地に呼び寄せて、盛んに商いをさせ発展させました。

関ヶ原合戦後に岡山城主となった小早川秀秋は、わずか2年に満たない城主でしたが城と城下町の改造を積極的に行っています。その中で特筆すべき工事は、当時外堀であった現在の中堀の外側に城下町広げてその町を守るかのように外堀を新設した事です。この工事は領民だけではなく家臣も駆り出されて、大がかりな突貫工事でしたが、わずか20日で完成しました。秀秋の意気込みが感じられます。

関ヶ原では東軍へ寝返った為、西軍の亡霊に苦しめられたとか、家臣を暴戻と見誤って手打ちにしたとか色々な伝説が有りますが、このような大がかりな工事を指揮してわずかな期間で完成させる手腕を見ると、伝説は後年のこじつけかもしれません。

小早川秀秋は、秀吉の正室筋の縁から3歳で秀吉の養子となり、7歳の時には丹波亀山に10万石の領地を与えられて、子どもが居なかった秀吉の後継者として将来を嘱望されていました。ところが、淀君が秀頼を産んだ事で運命が変わり1594年に小早川隆景の養子となります。

戦国時代では状況を見て仕える相手を考えるのは領主として当たり前の事で、仕える殿様がコケたら自分と家族どころか一族郎党が路頭に迷ってしまいます。

それが天下分け目の関ヶ原だったのは秀秋にとって良かったのか悪かったのか想像しか出来ませんが、関ヶ原の功で岡山50万石を手中にしたのは事実です。 若くして亡くなった為、なおさら祟りや狂死といった噂が出るのでしょう。