岡崎城は、今の愛知県岡崎市に有る、梯郭式平山城で、日本100名城にも選ばれています。天守は、1617年に作られた時は複合連結式望楼型三重三階で、現在の天守閣は、1959年に当時の図面を参考にして忠実に再現されたもので、図面が現存していなかった一部分は、松山城を参考にして造られたそうです。

徳川家康が生まれた城として有名で、誕生した時に城の上空に金色の龍が現れたという伝説が有ります。その伝説ゆえ、別名「龍城」と呼ばれ、家康の原点の城と名高いです。隣に建立された神社も「龍城神社」とされ、縁が深い地となっています。また、1542年12月26日、家康が誕生した時に産湯に使ったとされる井戸が本丸の北西側、坂谷曲輪跡に有り必見です。

戦乱で一度は今川家の支城とされましたが、桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、家が没落すると、家康自らの手で取り戻されました。その後、安土桃山時代まで家康の拠点の城として活躍し、江戸時代には岡崎藩の藩庁として重要な役目を担いました。

城の立地は、川の合流地点にある龍頭山の丘陵を要害として利用され、来歴は、龍頭山の砦として三河国仁木氏の守護、西郷稠頼、その子頼嗣が北方に対する睨みを利かせる為に築城しました。築城時は、「龍燈山城」と呼ばれ、松平清康が入城後に拡張、整備したのが岡崎城の原型とされています。

その後、前出の通り、家康が入り、さらに、家康が転封されると、豊臣家の家臣、田中吉政が入城します。元城主の家康を押さえ込む為に城を整備、拡張して頑丈な石垣と城壁を建設し、城の東と北西に4.7kmにおよぶ堀をめぐらせて近代的城郭に仕上げました。

城下町を7つの堀で囲む田中堀などを設置し、また、彼が郊外に有った東海道を岡崎城下を通るように変更して、「岡崎の二十七曲がり」と呼ばれる曲がりくねった道を作り、1609年には伝馬町が出来、東海道有数の宿場町として栄え、その手腕は後世にも評価されています。

豊臣から徳川の時代になると田中吉政は家康の傘下に入り転封されます。 その後明治の代まで譜代大名が城主となりました。本多氏、水野氏、松平氏などが城主となりましたが、大名たちは、わずか五万石では有りますが「神君出世の城」として神格化された岡崎城主になる事を誰もが誇りにしたと伝えられています。

大名たちだけではなく領民にも愛されて、岡崎には「五万石」という古謡が有ります。「五万石でも岡崎さまは、お城下まで舟が着く」詠われた舟を模った碑は岡崎地方特産の花崗岩で出来ており、その古謡に因んで「五万石舟」と言うのだそうです。