「岩国城」は、建てられた場所の横山から由来して横山城とも呼ばれ、1608年に初代藩主吉川広家が築城しましたが、徳川幕府の一国一城の制により完成からわずか7年で廃城の憂き目を見ました。今で言う山口県、周防国にはこの岩国城のみでしたが、長府藩の毛利秀元が居城の櫛崎城を破却した事に合わせざるを得なかった為と言われています。その後、麓の土居は岩国領の陣屋として明治維新まで存続しました。

今見られる城は、1962年に再建されたものです。その時に錦帯橋から城がよく見えるように、元に有った天守閣の位置から本丸南側に移動して再建されました。桃山風南蛮造りの四層五階の天守を持つ全国にも類を見ない山城です。その造りは三層目が大きく張り出していて、下の層より大きく造られており、その間の屋根を省略した様式です。南蛮造りの天守閣は、岩国城の他に小倉城が有名です。

また、石垣は古式穴太積という組み方を基本に、大きい石と隙間には小さい石で隙間無く詰められ、石垣の隅の角には算木積みの技法が見られます。石垣には反りが無くほぼ真っ直ぐで見かけよりも構造上の安全性を考えられた造りになっています。戦国武将吉川氏の石垣へのこだわりが見られます。

本丸を中心に、南西に二ノ丸、北東に北ノ丸を置き、他には曲輪が配置され麓には御土居が置かれました。城下と城を隔てる錦川には錦帯橋が架けられ、城下町はこの橋の道筋を基に整備されました。

現在、藩主の御土居跡は吉香公園(きっこうこうえん)として整備され、歴史的観光名所となっています。ここでは天然記念物の白ヘビが縁起が良いと有名で、白ヘビの最も古い目撃談は「岩邑年代記」に、1738年に横山地区の千石原に有った吉川家の城門付近で門番が捕獲したという記録が有ります。

また、錦川に架けられている有名な錦帯橋は、最初架けられた時は大雨による増水で流わずか1年足らずで流されてしまっています。そこで、町の人々が相談した結果、人柱を立てる事になりました。そこへ一人の貧しい武士が自ら名乗りを上げるのですが、その武士には娘が二人おりました。父を失うことを悲しんだ親思いの姉妹は白装束で現れ、ぜひ父の身代わりにと橋台深く身を投じました。その瞬間川の流れは止まり鮎の群れは泳ぎを止めたと云い伝えられています。

人柱として命を捧げた姉妹の身体は、小さな石人形として石垣から度々現れ、その後も人々を事故や災害から守り続け、二代目の錦帯橋は三百年近く流出しませんでした。地元の人は姉妹を弔い感謝したのでした。