「島原城」は「森岳城」の別名を持つ、1618年から松倉重政が築いた連郭式平城です。天守は、破風を持たない独立式層塔型五重五階の独特なもので、大小の櫓を見事に配置した安土桃山期の築城様式を取り入れた壮麗な城です。

石垣は直線から折れるように、また、直線を描く力強いもので、突角が13箇所造られています。これは、防衛上の死角を無くす意味が有ると同時に、城の装飾にもなっています。また、城の外郭は東西に約360m、南北に約1260mと広大で周囲は3900mの堀に囲まれた石高に見合わない大きい城になりました。それは、軍事上の拠点としての役割も有ったようです。

松倉重政は兵学者でも有り、築城名人とも言われていましたが、島原城の縄張りには難が有るとされました。城の本丸は廊下橋で二ノ丸と結ばれている為、戦闘時には橋を切り落とすと完全に孤立出来ましたが、袋のネズミ状態にもなる為、欠陥だと指摘する文献も有ります。それは、後述する重政の人間性にも由来しての批判かもしれません。

重政は、江戸城改築の公儀普請役を受けたりしましたが、要するに、資金を出して江戸城を普請した訳で、その他にも幕府のご機嫌伺いとも取れる政策や、四万石には不相応な島原城建築の為に領民から過酷な重税を取り立てて、払えない者には容赦なく拷問や処刑を行いました。同時に、徹底的なキリシタン弾圧も行い、オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルやポルトガル船長の記録に残っているその残虐さは、誰もを辟易させるものでした。

司馬遼太郎は著書、街道をゆくの中で「日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない」と記しているほどです。重政は57歳で急死していますが、あまりの悪政の為に幕府による毒殺説も出ている程です。次代の松倉勝家も、その上を行く残忍さを継承していた為、島原の乱の責任を問われ、大名としては異例の打ち首に処せられています。松倉家は改易されました。

その後は、譜代大名によって島原は治められ、松平氏の時に明治を迎えます。島原城も廃城され、民間に払い下げられてしまいました。島原の乱で炎上を免れ寛政の大地震でも倒壊しなかった天守も、1876年には解体され、本丸は畑となり、天守台だけが残りました。三ノ丸は整備され、第一小学校と島原中学校、島原高校が開校しています。

今見る事が出来る島原城は、天守、丑寅櫓、巽櫓、西櫓などが1964年に島原藩日記や古文書、島原城絵などを元に、築城当時を忠実に再現するように復元されたものです。今では、年間20万以上の観光客が訪れる長崎県島原市の観光名所となっています。