「平戸城」は、長崎県平戸市に有った城で、1599年から、松浦鎮信が築城したと伝えられている城郭構造梯郭式平山城です。 「亀岡城」「亀甲城」「日之嶽城」などの別名が有り、天守は三重五階で再建されています。

平戸島の北部に位置していて、平戸港を見下ろし、対岸の九州本土を望む平戸瀬戸に突き出た丘陵上と言う天然の要害に建てられています。さらに、三方を海に囲まれ天然の堀としていて、丘陵の頭頂部に本丸が築かれ、その南側に二ノ丸、東側に三ノ丸が配されています。

最初は、安土桃山時代末に松浦鎮信によって築かれましたが、徳川の時代になると自ら城に火を放ち、理由として豊臣と親交が有った事を嫌疑されるのを嫌がったとも、息子の死を悼んだ為とも言われています。江戸時代中期になってからの再建にあたっては、兵学者の山鹿素行の軍学に沿って縄張りがなされて、兵学上では最先端の城と噂され、同じ山鹿流で造られた赤穂城と並べられました。

この時代に築城が許可されたのは異例で、幕府は諸大名が城を改築して軍備を増強するのを厳しく取り締まった為ですが、平戸城の場合は徳川との姻戚関係と東シナ海警備の必要性によるものと言われています。

松浦鎮信は山鹿素行の弟子であり、素行と全国を歩き資料集めを行って、山鹿流軍学を学びました。ぜひ素行を平戸に迎えたいと希望したが叶えられず、素行の実子である高基、義昌の兄弟が藩士として迎えられました。実際の築城指導は、山鹿義昌によって行われたと言います。 1871年廃藩置県により廃城となり、翌年には現存していた狸櫓と北虎口門(搦手門)を残し、城の建物は解体されました。

現存の櫓が「狸櫓」と呼ばれるのには伝説が有って、1830年頃、櫓の修理の時に床板を全て剥ぎ取ったところ、小姓に化けた狸が藩主の寝所にやって来て、口上を述べたと言います。「我らは櫓に住んでいる狸で、一族を櫓に住まわせて頂きたい。叶えて頂けたら城を永代お守りする。」と嘆願したので、翌日床を元通りに戻してやったと伝えられています。これ以後、この櫓は狸櫓と呼ばれるようになり、未だに現存しています。

1962年には、模擬天守、及び、復刻された見奏櫓、乾櫓、地蔵坂櫓、懐柔櫓が建てられました。天守内は、松浦党などの資料館となっており、国の重要文化財の環頭大刀(亀岡神社蔵)も展示されていて、当時に思いを馳せる事が出来ます。現在の城跡は、亀岡神社の境内や亀岡公園となり、市民グラウンドなどの施設が有って市民にも馴染みの深い場所になっています。