毛利元就の孫、輝元が1589年に起工した「広島城」は別名「鯉城(りじょう)」と呼ばれ、地元では城の名に因んだ鯉城通と呼ばれる大通りが有ります。城の周りはいつ見ても満々と水をたたえた内堀に囲まれて、広島は昔から干ばつが少ない事を意識させられます。広島市は水の都として外部へ観光アピールしていたり、また、水が美味しいのでお酒造りも盛んに行われておりますが、それは、お城の影響も有るのかもしれません。

また、野球の広島カープは鯉がキャラクターですが、鯉城が由来なのは他県の方にはあまり知られていません。 天守閣は高さ39m有り、秀吉時代の大阪城がモデルと言われています。当時、大阪城や聚楽第は最先端のお城で、広島城の外壁も同じ黒塗りと模されています。秀吉は美的な事にはとても凝り性で建物を造るセンスは抜群でした。

後に秀吉は、広島城を見て思った以上に見事な城だったので仰天し、手放しで褒め称えたと言う文献が有ります。想像すると楽しいですね。 1599年に完成とされ(諸説有ります)、1931年には国宝指定されましたが、1945年の原爆投下によって辛うじて熱線には耐えたのですが、強烈な爆風によって倒壊しました。

そのわずか6年後に、広島で行われた「広島国体」に間に合わせる為に、木造で仮天守閣を建立し、原爆からの復興をアピールしました(国体終了後すぐに解体となった)。 原爆投下後、70年間は草も生えないと言われていた広島に、国体を誘致した先人のバイタリティーと、その復興の象徴で有った広島城天守閣の再建は、今でも、広島県人の心の拠り所となり語り継がれています。

その後、1958年に現在の天守閣が竣工となりました。天守閣の石垣は唯一、毛利輝元時代のものが残されており、築城工事が始まって間もない1589年8月頃、輝元は家臣に石材の収集を命じています。石垣には広島名産の牡蠣の殻などが付着しており、その事から石材の多くを広島湾の沿岸部で取れる花崗岩を使っていた証とされています。

天守閣は本丸と二の丸、石垣と堀から成り、内堀越しに城全体を臨むと優美な広島城の美しさを堪能できます。江戸時代は内堀が中堀と外堀に囲まれており、総面積は90万㎡も有る広大な城でした。 広島市の中心地の繁華街に有るお城で今も地名に名残が有ります。 路面電車やバス停に残る「八丁堀」の名前は前出の外堀の事で、南北に伸びていた堀の長さが880mだった事が由来です。

広島県で一番の繁華街に優美にそびえ立つ広島城は、豪華さには姫路城に負けているかもしれませんが、歴史を感じる心のふるさととして広島県人の心を支えています。