弘前城は、別名「鷹岡城」(高岡=弘前の古名)と呼ばれ、1590年に津軽地方を平定し、さらに関ヶ原でも武功を挙げた大浦為信氏が始祖の、後には弘前藩主となる津軽氏二代目藩主の信枚が1610年に築城を開始しました。 司馬遼太郎が「日本七名城の一つ」と感嘆した北の名城です。

築城にさかのぼる1603年に、初代藩主為信は兵学者、沼田面松斎に兵法や陰陽五行(風水)などから城の場所を検討し決定しました。そこで選ばれたのが四方を四神獣が守護すると考えられた高岡の地で、現在の弘前です。 その後、為信は高岡城の完成を見ることなく1607年に病没し、息子二人も鬼籍に入っていたため、三男の信枚が二代目藩主となりました。

風水にて城の地を決めた初代藩主為信ですが、彼の出生も神がかった伝説が有ります。 為信の父、守信は跡継ぎの男子が居ない事を嘆き、神山、岩木山に祈願していました。すると、夢枕に白髯の仙人が現れ、「我は岩木山権現の神である。汝にこの扇を与えよう。」と言いました。守信が扇を手にした途端目が覚めて、まもなく妻の一人が懐妊し無事生まれたのが信牧です。彼の幼名は夢に因んで「扇」と付けられました。風水や神山に信心深いところは親子で似ています。

その後も信牧は、為信から家督を相続した報告のため、江戸に行った時に天海大僧正に弟子入りすべく訪ねました。そして、天台宗に帰依し藩内に寺院を建立して高弟を迎えて布教に尽力しました。天海は信心深い信枚を深く信頼し、後に権大僧都寛海の名を与えたほどです。さらに、家康の養女との結婚も天海の口添えと言われています。

その信心深さ故、日光東照宮が建立された時に津軽家が真っ先に城地を持つことが許されました。万が一の場合でも、東照宮が後ろ盾なので、幕府さえも手出し出来ず、徳川家の天下が続く限り津軽家の安泰も約束されました。 1627年に落雷により五層天守閣が炎上、落雷により鐘が熱せられ下層に落下し、備蓄してあった火薬に引火したのが焼失の原因と言う事です。

翌年、三層の櫓を再建し、天守閣としましたが、これを機に城名を「高岡」から「弘前」へと変更しました。この命名も天海によるものであり、天台密教の真言「九字の法」から選んだと言われています。

その後、ロシア船の来航を睨み辰巳櫓を改築し、三層三階式となった櫓を天守の代用としました。1949年北海道の松前城の天守閣が焼失してしまった為、日本に現存する12の天守の中では最も北に位置しています。三重の堀に五つの門、三つの櫓が残り、現在では「弘前公園」として広大な敷地面積(約49万㎡)を誇る城内に植えられた桜の木は約50種2600本を越え、本州より一ヶ月遅れの花見を堪能できます。