「徳島城」は徳島県徳島市に有った梯郭式平山城で、1585年に海抜62mの渭山に蜂須賀家政が築城を開始し、1869年に廃城された明治に至るまで蜂須賀家が城主を勤めました。別名は渭山に造られた事から「渭山城」「渭津城」とも呼びます。今では石垣と堀、庭園が残ります。蜂須賀家政は秀吉の腹心と言われた蜂須賀小六の息子です。

「太閤記」でも有名な蜂須賀小六は優秀な参謀でしたが、太閤記の豪快な人物像とは違って表立たず、竹中重治や黒田孝高を立てて秀吉によく仕えた人格者と言われています。阿波一国を賜ったのに、秀吉の側に仕えたい為、阿波は息子に譲ってしまったほど秀吉に忠義を尽くしました。

秀吉から阿波一国を賜った家政は、始め徳島で一番の堅城と呼ばれた一宮城に入城しました。しかしその堅城を捨て防御が難しい渭山に新しい城を築き始めた時、重臣は反対しましたが「地の利を頼むよりも、人の和を得ることこそが、これからの大名には必要である。要は徳にあって嶮ではない」と重々説いて徳島城を完成させたと伝わっています。

この築城にあたって秀吉は小早川隆景や長宗我部元親らに援助を申し付けていますが、これが後に幕府が外様大名に命じた費用と人員を負担させる「天下普請」の走りと言われています。その甲斐有って徳島城はわずか1年半で完成しました。 その縄張りは川を巧みに使って、新町川や福島川などを外堀に、寺島川、堀川を内堀に活用しました。詰めの城は山頂に有る本丸と、東二ノ丸、西二ノ丸、西三ノ丸から成り、麓にお屋敷と称された建物を置き戦国時代を思わせる縄張りでした。天守は1588年に造られその後1615年から1624年の間に取り壊されたと記録が有ります。

天守は山頂の本丸では無く一段下がった東二ノ丸に再建されましたが、この事例は非常に珍しいものでした。また「阿波の青石」と呼ばれる特産の緑泥片岩を石垣に使って、美しい独特の風情を出しています。1989年に鷲の門が復元されています。

家政は、築城に携わった大工や百姓らを労って祝儀として酒を大盤振る舞いし、さらに城下の民にも振る舞った事から、民衆は狂喜乱舞しました。武士たちにはその席に連なる事を厳しく戒めたので民衆は遠慮する事無く大騒ぎが出来ました。町民らは7月15日から16日の2日間にわたって踊り狂い、これが阿波踊りの始まりとされています。名君、蜂須賀家政は民衆の心を掴み、明治までの長い間阿波を統治しました。

明治に入ってからの廃城令で建物は破却され、唯一鷲の門だけが残されましたが、1945年の徳島大空襲で焼失してしまいます。しかし1989年に復元されました。また天守の復元については「忠実に復元する」派と「見栄えの良い大きい五層の天守を造る」派に分かれて対立しています。

そんな諍いを余所に、夏前になると有名連達が城山でにぎやかに阿波踊りの練習をしています。家政は賑やかな事が好きだったのだろうと思いを馳せる情景です。