「忍城」は、地元の豪族であった成田正等、顕泰父子が1478年頃に、扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし、築城したと伝えられています。翌年、これに反発する扇谷上杉家に忍城を攻められましたが、上杉家家臣の太田道灌の仲介にて和解して、以後は成田氏が治めました。

1479年の足利成氏の書状に、「忍城」「成田」と出て来る事から、この頃には築城されていたと考えられています。当時の城主は成田顕泰で、以後、親泰、長泰、氏長と四代に渡り、1590年まで城主として近隣を治めました。

1590年、秀吉の「小田原討伐」の時、成田氏長は北条市の命を受けて小田原城に籠城し、忍城には従兄弟の成田長親を城代として、家臣と農民ら3,000人が立てこもりました。豊臣側の総大将は石田三成で、本陣を忍城が一望出来る近くの丸墓山古墳に置き、城の近くを流れる利根川を使った水攻めを行う事を決めました。

長さ28kmにも及ぶ、後に石田堤と呼ばれた堤防を造り、城を沈めようとしましたが、本丸は沈まず一ヶ月に及んでも落城しませんでした。すぐ落ちると思っていた石田側は焦っていましたが、逆に大雨の時に堤防が決壊して、石田軍側に多大な被害が出ました。これは、農民が夜に紛れて堤防を壊したと言う説も有ります。

ついに小田原城が落城し、それに伴って忍城は開城されましたが、小田原落城までもちこたえた支城は忍城だけだった為、面目躍如にて「忍の浮き城」という別名の由来となりました。水攻めに耐えられたのは、城が元々湿地帯を上手く利用して建てられ、湿地に点在する島に橋を渡す形状で城を築き、櫓は建てずに本丸は空けて二ノ丸に居住していた為だと言われています。その独特の造りで攻められにくく守りやすい城でした。忍の浮城の話は、小説「のぼうの城」のモデルとなっている事でも有名で、関東七名城にも謳われています。

現在の御三階櫓は1988年に再建されたもので、江戸時代の忍城ゆかりの品として、時鐘(じしょう)があります。この鐘は、1717年桑名藩主松平忠雅によって鋳造され、1823年に松平氏が桑名から忍へ移封されるのに伴って、忍城へ移されたものです。それからはお城の二ノ丸に据えられ、時の鐘として領民に時刻を知らせていました。

現在の忍城跡の鐘楼につるされた鐘は、1992年に造られたもので、本物は郷土博物館に展示されています。毎年、大晦日の夜には、除夜の鐘として市内に響きわたります。 忍城跡の東小路と商店街や公園通りに、市役所の南側に隣接して木陰と水の流れが美しい遊歩道「浮き城の径」が整備されています。