静岡県掛川市に有る「掛川城」は1469年頃から今川義忠が遠江支配の拠点とする為、家臣の朝比奈泰煕に築かせました。今川義元は1560年の桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られると、その子氏真は武田氏を恐れて命からがら掛川城へ落ち延びました。掛川城主の朝比奈泰朝は徳川軍の包囲に長期に渡って抵抗し、長い籠城戦に入ります。意外に手強い相手に限界が来た家康はついに和合を提案しました。

その頃の伝説で、家康との籠城戦の時に本丸天守に有る「霧吹き井戸」から霧が吹き出して城をすっぽり覆い、徳川軍の攻撃から守ったという話が有ります。この事から掛川城を別名「雲霧城」と呼びます。今でも井戸付近では霧がかかる様子が写真などで紹介されています。家康も業を煮やす訳ですね。

掛川城は今川氏真の安全を保証する事を条件に開城され、家康の臣下、石川家成が入城し、武田氏へ睨みを効かせました。東海の雄と謳われた名門今川氏は海路北条市を頼って伊豆へ落ち延び、戦国大名としては滅亡しました。

1590年、秀吉の天下統一後に、山内一豊が5万石で入城し、改築を進めて、今の城郭の基礎を築き、梯郭式の平山城として整えました。 その10年後の関ヶ原の武功で、山内氏は高知へ転封となり、掛川城へ太田道灌の子孫が入り、明治維新まで続く事となります。

1854年の東海地震で天守が崩壊してしばらく再建されず、1994年に元の天守で使われていた資材も使い、浄財を合わせた10億円を遣って日本では初めて木造にて天守が再建されました。天守は崩壊前の通り望楼型三層四階の入母屋造で、二重目の唐破風出窓や花頭窓などは、絵図などに基づいて忠実に再現されています。

山内一豊が掛川城の天守と同じように造った高知城に近いため、それを参考にし、壁にも白い漆喰が使われています。 二ノ丸に保存してある東海地震の3年前に作られた絵図には、天守だけではなく周囲の石垣や芝土手の図も見てとれるので貴重な資料とされています。二ノ丸御殿、太鼓櫓、石垣や堀の一部が遺構として残っています。

また、掛川駅から掛川城までの約500mと周辺商店街では、城下町風景観を維持する為に、色々な事が話し合われ取り決められて美観を保っています。

お城周辺の建築物には、瓦屋根と海鼠壁を使う歩道敷のタイルは、石板調の物を使用する電線の地中埋設による無電柱化による景観の維持と、信号機もデザイン化したポールを使用する等、かなり配慮されていてタイムスリップしたような風情の有る街並みになっています。