「新発田城」は「あやめ城」と言う風流な別名でも呼ばれ、自然の要害をつくるために周囲が湿地になっており、あやめがたくさん咲いていた事が由来とされています。 また、本丸の形から「舟形城」とも呼ばれ、大雨になると城が水面に浮かんで見えると言うので「浮舟(うきぶね)城」とも呼ばれます。別名の多さから領民から愛されている事が伺えます。

さらに、家臣の軍学者、長井清佐衛門が城の縄張り(曲輪や堀、門、虎口等の配置の事で城の善し悪しを決める)を考えている時、キツネが現れ尾を引いて縄張りのヒントを与えてくれた故事から「狐尾曳(きつねおびき)ノ城」とも呼ばれています。

本丸表門、旧二の丸隅櫓は国指定重要文化財になっていて、縄張りは本丸を二の丸と古丸が取り囲んで設計され南に三の丸、その南に大手門を設置し輪郭・梯郭併用の平城となっています。1598年に初代新発田藩主の溝口秀勝が築城し三代宣直の時に完成しました。

新発田城は要害だけを考えた今までに多く有る山城とは違い、政治・経済の中心として交通の便利さを考えて平地に造られた近代的平城です。石垣が幻術的に隙間無く噛み合わされた「切込はぎ」で組まれ、さらに北国の特有の風情が有る黒白の対比が美しい海鼠(なまこ)壁は全国的にも珍しく必見です。

天守閣の代わりを果たしていたのが三階櫓で、棟が丁字形になっており、三つの入母屋を造ってそれぞれに鯱を上げるというかなり珍しい「三匹の鯱」が並んでいます。平成16年には、この三階櫓、辰巳櫓が復元されました。

また、城郭跡に初代藩主、溝口秀勝の銅像と、秀勝の曾孫にあたる赤穂浪士の勇士、堀部安兵衛の像が建っています。赤穂義士の討ち入りで中心的な役割を果たした安兵衛の顔は今でも一路江戸を向いていると言われています。

新発田家と言えば、「天と地と」でも剛胆な武将として有名な新発田重家は、1580年に家督を継ぎました。彼は幼い頃から剽悍で上杉謙信の小姓時代、わずか13歳で鐘を壊して回る林泉寺の妖怪(ねぶた祭りで表される赤坊主)を退治し、謙信が小田原城を攻めて引き上げる際には、謙信軍の備えを批判し16歳ながら自ら危険な殿軍を勤める等、剛胆ぶりでその名は轟いていました。

重家に面談した秀吉の使いの木村義清はこう言います。「重家の容貌は夜叉の如く乱れ髪は藁で束ね、三尺の朱鞘脇差と四尺の長刀を腰に差し袴も着けず応対した。出されたお膳には鷹の羽根と大鮭の姿焼きのみ載せられていた。」 今、重家は菩提寺に祀られ、清水園のすぐ近くに有る福勝寺にて眠っています。