「杵築城」は、大分県杵築市に有る平山城です。他に、「木付城」「勝山城」「臥牛城」と呼ばれ、1393年に、木付頼直によって築かれました。天守は、独立式望楼型三層三階で、1970年に、模擬天守として造られています。地名の「杵築」は、木付氏の名前が由来と考えられていて、1712年、木付家3代重休の時、6代将軍徳川家宣の朱印状に「木付」を「杵築」と誤記された事から、以後「杵築」と表記するようになりました。

城は、室町時代初期に、木付氏によって要害と考えられた八坂川の河口に位置する台山に築かれました。代山は、北に高山川が流れ、東は守江湾に囲まれて居る為、攻め込まれにくい地形でした。当初は、台山の山頂に城が築かれましたが、1596年に、地震が起こった事と、続けて翌年に、暴風雨により、天守が損壊してしまった為、山頂では無く、台山の山麓に移動しました。正式には、1645年に、山頂の城郭は廃止となっています。

戦国時代には大友氏と島津氏の戦いの舞台となり、籠城も経験し、重要な拠点となりました。1586年の豊薩戦争では、府内を占拠した島津家久の命により、新納忠元が杵築城を包囲しました。木付鎮直は上手く兵を指揮し、二ヶ月もの長期に渡って島津軍の猛攻に耐えました。豊臣勢が木付氏に加勢に来ると、島津軍が撤退を開始し、それを見逃さず追撃し、薩摩軍を蹴散らし、大きな軍功を上げました。これにより、「勝山城」とも呼ばれるようになり、難攻不落の城として名を馳せました。

戦後の城跡は、城山公園として整備され、山上の天守台跡に資料館と博物館、さらに、展望台を兼ねた模擬天守が建てられています。石垣や堀は現存しています。

代わって、山麓の居城跡は、現在の杵築神社と杵築中学校一帯になり、神社の北側に石垣が残っています。また、城の御殿跡には、現在、図書館と公民館が建っており、庭園の遺構は見る事が出来ます。旧城内城鼻地区に旧船形屋敷が現存し、現在は、民家として利用されています。他には、藩校学習館の正門が現在の杵築小学校の裏門として現存し、現代に使われています。

城下町は北台と南台といわれる武家屋敷群と間の谷町には、日本式家屋の商家が立ち並び、現在も雰囲気が保たれていて当時を偲ぶ事が出来ます。 城下町の整備については、4代目の杵築英親が力を入れていて、彼は名君で町人を庇護した事で知られています。町人により商売が繁盛すると、藩の収入が増え、経済が潤うと考え、商業を奨励し、発展させようと取り組んでいました。交易で利益を上げ、石高より多い収入を得ていました。

また、今現在、全国で行われている景観条例を江戸時代から行っていました。火事に強く景観が良い瓦を推奨したり、美観や魔除けになる漆喰で描かれた鏝絵も勧められ、江戸時代に流行っていた神社仏閣巡りに人気の八幡宮の総本山、宇佐神宮の参拝客を見込んでいたと言われています。