松本城は「深志城」と呼ばれ、また黒く塗られた外壁からか「烏(からす)城」とも呼ばれていますが文献に「烏城」の名は見あたりません。また「黒烏城」の別名も有ります。1600年頃から城の壁の板張りの上から漆喰を塗る”塗り込め“を行うようになり火矢などによる火災の防止が目的だったのですが、姫路城はその純白の漆喰から「白鷺城」という美しい名がつけられたのは有名です。

対して松本城は、板張りで外壁の板を防腐目的で漆を塗り、外壁が黒色になった事から烏城と呼ばれるようになりました。夜にライトアップされた姿は白黒のコントラストが美しく息を呑む眺めです。

また、松本城には庄屋、多田加助の一揆の伝説があります。1686年10月長い間不作が続き食うや食わずの生活を送っていた領民に対して、松本藩は近辺の藩より倍の不当に高い年貢を課します。それに反発した庄屋の多田加助が同士と共に立ち上がり、通常の年貢に戻す様に嘆願する直訴状を持って奉行所に訴え出ます。奉行所の周りには、彼らに賛同する領民が鍬や鋤を持って集結し一触即発の状態でした。

折しも藩主、水野忠直は参勤交代中の為不在で幕府に知られたら一大事の為、家老は多田たちの要求を一旦飲んで油断させ、多田以下一族郎党を捕縛し1686年11月22日に処刑しました。加助は磔にされる時、刑場の外に集まって涙にむせぶ千余人の領民に「今後年貢は五分摺二斗五升だ」と絶叫しつつ亡くなりました。

また、多田は「我が怨念で天守閣を傾けようぞ」と睨んだと伝えられていて、実際に天守は傾いたのですが、地盤の悪化による傾きと伝説が結びつけられました。それから40年後の1725年に、水野家六代目の忠恒は江戸城松の廊下で乱心し、刀傷事件を起こし改易され、これも加助の祟りと噂され恐れられました。

翌年に戸田家が松本へ入封した時に、多田加助を義民表彰し、「貞享義民五十年忌経典二千部供養塔」が建てられ供養されました。やがて明治維新を迎えると、多田加助らは義民として広く知られるようになります。

そんな歴史をくぐり抜けてきた天守閣は、現存する天守としては姫路城の次に大きく、五層六階の大天守、三層四階の乾小天守、巽附櫓、月見櫓から成る複合天守です。

起源は1500年代初め頃、小笠原氏の家臣、島立右近貞永が深志城を築いたのが始まりと言われていますが、諸説有ります。

1548年の塩尻峠の合戦で小笠原長時を破った武田信玄は、深志城を大々的に改修し、以後1548年の川中島の戦いなどでも攻略への重要な兵站拠点としました。上杉軍は信玄の本陣を探しに探したのですが、まさか奥まった深志城が本陣とは思わず、兵法がまだよく知られていなかった時代に、移動や駐屯に便利な平城である深志城に目をつけた信玄の才覚は素晴らしいと言えます。