「津山城」は岡山県津山市山下に有った日本三大平山城で、城郭の構成は梯郭式平山城です。鶴山に建てられている事から「鶴山城(かくざんじょう)」とも呼ばれています。1441年から森忠政によって築城されました。天守は独立式層塔型四重五階のものが有り、小倉城を模していると言われています。

その由縁は小倉城の豪奢な天守の評判を聞いた森忠政が、家臣の薮田助太夫を派遣して小倉城天守の構造を検分し見取り図を写し取ろうと画策していた所、小倉側に怪しまれて捕まり詰問されました。通常であれば、城は防衛の要塞の為、小倉藩は津山藩に厳重抗議を行って薮田助太夫は打ち首になってもおかしくないのですが、小倉藩主、細川忠興は「森忠政殿のためなら存分に見るがよい。」と見取り図を写させてくれて、家臣に手みやげまで持たせたという懐の深い話が伝わっています。

そこまでして造った天守は堂々たる五層となり、幕府が許可した四層に違反していました。露見したら森家は断絶です。申し開きのため江戸に向かう忠政ですが、幕府に対して「絶対に五層ではない」と言い張り急いで津山へ戻ります。忠政は幕府の検視役が来る前に最下階の庇だけを取り除いて四層に見せかけ検視役を欺きました。その為、幕府から何も咎められなくて済みました。その森忠政公の思い入れが強い津山城も他の城と同じように明治に入った1873年に廃城され、今では石垣や堀が遺構として残り。城郭跡は鶴山公園となっています。

その他の伝説では、岡山県美作に入った森忠政は、居城地を古い歴史を持つ西方の院庄移すため築城に取り掛かりました。ところが忠政の重臣、井戸宇衛門が監督している現場に、忠政の内室の弟である名古屋九衛門が来合わせ、些細なことから小競り合いになり斬り合いにまで発展して共倒れとなりました。二人とも前の任地の川中島の頃から犬猿の仲で、それが高じての受難でした。

二人の遺体は、同じ側に埋めるのを憚られたのか道を隔てた両側に埋められて、盛り土がされ松の木が植えられました。それ以来、片方の松が青々として枝振りが良くなれば、もう片方の松は枯れそうになるまで衰えるので仲が悪かった二人になぞらえて「にらみ合いの松」と言って現在も見ることが出来ます。

ちなみに名古屋九衛門は、阿国歌舞伎に登場する美男子、名古屋三郎の事だそうです。 2004年に谷川から引き上げられた津山城築城時に切り出されたと思われる石が見つかり「矢穴」と呼ばれる楔の穴が何カ所か空いています。この石は「忘れ去られた石」と名付けられ「津山歴史時代絵巻~築城大石曳き」で町内の人によって市内中心部を津山城まで曳かれて行きました。