「はま松は出世城なり初松魚」と謡われる「浜松城」は、歴代の城主が次々と幕府の要職に就いた為「出世城」と呼ばれています。 静岡県浜松市に有る浜松城は、家康が建てた梯郭式平山城として有名です。

華美でお祭り騒ぎが好きで豪奢な城を好んだ秀吉とは逆に、実用主義で節約に励み隙が無いイメージの家康ですが、城の石垣は風情あふれる野面積みと呼ばれる、そのままの形を生かした石を積み上げていく方式で見事な石垣です。 元は今川氏が築城した曳馬城が拠点で、1504年頃から築城されました。

この浜松城は、家康が生涯で最大の敗戦を喫した三方ヶ原の戦いの拠点となった城です。家康は教訓とする為、敗走して帰ってくるなり、その顔を絵師に描かせたと言い、肖像画が残っています。

時は1572年、戦上手の武田信玄が風林火山の旗印もまぶしく、二万五千人の兵を率いて、至る所の支城や砦を攻め落としながら、三河の地を切り崩してきました。家康側は、わずか一万人程度の兵で籠城し続けるならまだしも、攻撃では勝ち目は有りません。武田軍が今来るか今来るかと、防御の準備をしていましたが、あっさり浜松城の前を通り過ぎてしまいます。

これでは、家康の面目が立ちません。自国を荒らされて、何も手出しをせずに指をくわえて見ていると家臣に思われたのでは、見限られて家康に離反する者も出てくるかもしれません。今まで腹心と思っていた家臣に何度も裏切られているので焦りも出てきました。信玄の周到な作戦で、兵力に差が有っても籠城している軍を攻撃するのは自軍もかなり消耗するので、野戦に持って行きたい為、挑発していたのです。

しびれを切らせた家康は、坂道に入っていった信玄軍を自軍が有利と判断し、攻撃しますが、すべては信玄の計画通りで家康の出撃を待ちかまえていたように、瞬く間に陣形を整えて弓に矢をつがえていました。 家康は命からがら潰走し、家臣の機転で用意された影武者のお陰で敵の目をくらまし、命を永らえたと言われています。

その後の話では、信玄を大変恐れていた家康は同時に信玄を大変尊敬していたらしく政治や戦だけではなく、生涯の心の師として仰いだそうです。戦が終われば私怨に囚われない所は、子どもの頃から苦労してきた家康だからこそ出来るのかもしれませんが、さすが天下を獲った人と言えます。

三方ヶ原の戦いで家康の本陣を追い込んだ山県昌景の戦いぶりを鬼神のようだと畏怖した家康ですが、同時に感心もして、徳川軍の精鋭部隊で有る井伊直政が率いる「井伊の赤揃え」は、この山県昌景の部隊の衣装の「赤揃え」に因んでいると言われています。