「清洲城」は、「清須城」とも呼ばれる現在の愛知県清須市一場に有った平城です。 室町幕府の斯波義重は、稲沢市に有った下津城を居城としていましたが、1405年頃に別城として、清須城を築き、守護代の織田敏定を城主としました。

1476年に、下津城が戦乱で焼失してしまうと、守護所を清須城へ移し、清須が尾張の中心として栄えました。1555年に、織田信長が那古野城から移り、居城とし、桶狭間の戦いでは、ここから出陣して今川氏と戦いました。城は次第に拡張され、本能寺の変の後は信長の次男、信雄が城主となりました。

清洲では重要な会議が数回行われていて、1582年の本能寺の変の後に、信長の後継体制を決める「清洲会議」が開かれています。そこで秀吉との対立が深くなっていきます。その為、来たる戦に備えて城を改築、拡張して天守等を築き、堀も三重の広大な物へ広げました。

その当時は、城郭が東西2000m、南北2500m、城下町の人口は、6万人にも達する一大都市となっていたそうです。 さらに、関ヶ原合戦の直前にも、天下の情勢を決める重要な会議が行われました。

1600年夏に、上杉景勝の討伐を行うため、徳川家康が関東へ下ると、その間隙を縫って、石田三成らが打倒家康の兵を挙げました。それを聞いた家康は、栃木の下野まで兵を進め、諸将を集め石田勢との決戦を告げました。そして、先発隊は福島正則、細川忠興、黒田長政、池田輝政、浅野幸長らの名だたる諸将は清洲城へ集結し、家康の西上を首を長くして待ちましたが、家康はなかなか出馬する気配を見せず、家康側に付いた諸将は焦り、時には怒りながらも家康の真意を計れずにいました。

これは、家康が過去に腹心と思っていた家臣に何度も裏切られている為、慎重すぎるほど慎重で有ったのと、策略でも有ったという見方が有ります。その緊迫した状態の時に、家康より使者の村越茂助が清洲城へ送られました。

茂助は、使者の口上を述べる際、家康の本音である所の「殿は諸将が何故戦いを始めないのか計りかねている。諸将が味方であるという証拠を見せてくれるまでは、不安で江戸を離れる事も出来ないと言っている。」と、うっかり喋ってしまいました。

それを聞いた血気盛んな福島正則は驚き、急ぎ諸将を扇動し、西軍の岐阜城攻撃に移ったと言われています。 この村越茂助の口上は、家康の思い通りの展開となりましたが、茂助の性格を利用した最初からの計算だったと言われています。

信雄が失脚した後は、城主が豊臣秀次、福島正則、松平忠吉、徳川義直と代わっていきます。1610年に、名古屋城の築城が始まると、城下町ごと名古屋城へ移されました。 これが有名な「清須越し」で、「思いがけない名古屋ができて花の清須は野となろう」と謡われたとおり、清須城は城下ごと姿を消してしまって、跡は田畑となりました。