現在私たちが見る事が出来る「熊本城」天守閣は、1960年代に再建されたものですが、それは加藤清正公の築いた当時の瓦の数まで忠実に再現しているのだそうです。 熊本城は、別名「銀杏城」と言う風流な名前でも呼ばれる日本三大名城の一つです。規模や意匠などから実質日本一だという人も多くいます。

天守は連結式望楼型、張り出し造りで石落としが仕込まれた大天守は、三重六階地下一階で「一の天守」とも呼ばれます。小天守は三重四階地下一階で、「二の天守」とも呼ばれ、御上(おうえ)夫人のための建物です。

石垣に特徴が有り、「武者返し」と言われ、基盤を固める為に子どもたちを何日も遊ばせて地ならしをした等、逸話が多いです。石垣の組み方は、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれ、石垣を扇のように優美に組み、なおかつ、堅牢で、熊本市ではこの石垣を永遠に子孫に伝える為に毎年計画的に傷んだ石垣の修復を行い、保存管理に努めています。

清正が転封して来た頃の肥後熊本は貧しく、宣教師がこんな貧しい国は見たこと無いとまで言っていたのですが、清正が領地を整備し、治水や新田開発などに尽力し、また、南蛮貿易も上手くこなして領民の暮らしを守りました。未だに熊本の人は善政を「せいしょこさんのさしたこつ」と言って感謝しています。

清正は藤堂高虎と並んで築城の天才と言われ、高虎は小ぶりで堀に工夫をした縄張りをしていましたが、清正は前出の石垣と井戸に工夫を凝らし、伸び伸びとした雄大なお城を得意としました。

伝説も多く2~3人がかりで持ち上げねばならないほどの石を、一人で首にかけて軽々運んできたと怪力で評判の者がおりました。その者について詳しく知る者が清正に注進します。「あれは、木山弾正の息子の横手五郎という者です。」

木山弾正は、肥後の領主となった小西行長に対して反乱を起こした天草五人衆の一人で、その合戦で木山は、清正と一騎打ちをして落命していました。案の定、横手が襲って来て捕らえられた横手五郎は生き埋めにされます。また、別の話では、清正が横手に深い井戸を掘ったら褒美をやると詭計をめぐらし、生き埋めにしてしまったと言うものです。

横手五郎は、今では横手阿蘇神社境内に毘沙門堂が建立された時に、横手五郎大明神として祀られました。境内には「五郎の首かけ石」が祀られていて、それは1800kgも有るそうです。

清正の芸術作品とも言える熊本城ですが、仮想敵であった薩摩側には堅牢に警備を凝らし、畳には里芋の茎を使い井戸は120基も堀り、壁にはかんぴょうを塗り込んで籠城を想定していたそうです。 その為、西南戦争でも落城せず官軍を勝利に導きました。