「甲府城」は山梨県甲府市に有る別名「甲斐府中城」「舞鶴城」「一条小山城」「赤甲城」等と多くの名で呼ばれる梯郭式平山城です。甲府城と言えば「武田信玄」を連想する人が多いのですが、実際は武田氏滅亡の後に秀吉が羽柴秀勝、加藤光泰に命じて築城させ浅野長政によって完成されました。秀吉による家康の権勢拡大を阻止する為に小諸城、上田城、松本城、高島城、飯田城と連携して家康の包囲網を張り、その中でも重要な要塞となります。

関ヶ原の戦い後は柳沢吉保が入り、城と城下町の改築と整備を行っています。その後柳沢氏が転封されると幕府の直轄下に置かれ、城は享保の大火に見舞われて本丸御殿や銅門を焼失し、次第に壮麗な姿が失われていきます。明治に入って廃城となり、ほとんどの建物は取り壊され、葡萄酒醸造所などが城内に作られました。

1917年に甲府市が村松甚蔵氏の寄付を受けて払い下げを受け、戦後の市街地復興に併せて公園整備を進めました。1964年には「舞鶴城公園」として都市計画が決定され、1968年には県の指定史跡となります。遺構は石垣と堀で市街地に有る城にしては遺構が多く残っています。城は独立した丘陵に曲輪群が形成されて、東日本最大級と言われる見事で壮麗な野面積み高石垣を見る事が出来ます。

1985年頃までは甲府城には天守が無かったとされる説が有力でした。その根拠は江戸時代の儒学者「荻生徂徠」の紀行文に“天守は昔から無かった”と記されているからです。また浅野氏が豊臣の権力の象徴のような天守を、家康への忠義の証として取り壊して地中に埋めたと語られてもいます。城の規模も大きく本丸は三段の石垣から成る厳重な構造ですが、実際には本丸の東側の石蔵を伴った天守台に天守が有ったのではないかと推測されています。

甲府城は幕府直轄の城で他の外様大名のように改築や増築に遠慮は要らなかった為、理由無く天守が築かれなかったのは不自然です。1985年から大々的改修によって石垣の改修、公園内の路や広場の再整備、堀の浄化、占用物件の移転、鍛冶曲輪門、内松景門、稲荷曲輪門や塀の復元、二層の稲荷櫓の木造での復元などが行われました。その時に城郭内から金箔瓦や大型の鯱瓦などが多数発見され、その鯱瓦は1.5mも有り、大きさから天守の大きさを測ると40mの高さで大阪城並みの五層天守が存在した可能性が高くなってきました。

識者により甲府城は豊臣時代の城で天守が存在した事が明言され、天守再建の声が高まってきました。ついに甲府市では300万円もの懸賞金を出して、天守を復元する為の史料を探していますが未だ全く見つかっていません。 天守について何か手がかりが見つからないか祈るばかりです。