白川小峰城は、別名「白河城」、他には「小峰城」と呼ばれる平山城で、城の背に流れる阿武隈川が天然の堀で他から攻め込まれにくい要害となっています。

江戸時代における攻防に優れた梯郭式の平山城で、東北地方ではあまり見られない総石垣造りの城で堅牢さを誇りました。その石垣に関する言い伝えが有り、外堀の石垣が組んでも組んでもすぐに崩れる為、ついに人柱を立てる事になりました。その人柱は石垣を組んでいる作業場の近くを一番初めに通った者を選ぼうと決まりました。

すると、そこへ藩士の和知平左衛門の娘「おとめ」が父親に弁当を届けに来て通りかかり、和知平左右衛門は必死で来るなと言う仕草をしたが、娘は来いと言われたと勘違いし、人柱にされてしまいました。皮肉にも一番初めに通った者をと決めたのは和知平左衛門その人でした。その後、石垣は無事に積まれ完成し、ほどなくして、おとめが埋められた辺りから桜の木が生え、「おとめ桜」と呼ばれるようになりました。今のおとめ桜は戊辰戦争で焼けてしまい二代目です。

白川小峰城の築城は白川岩城氏が行い、本城の白川城の支城として小峰氏を入城させました。しかし、小峰氏は1520年頃に本城を小峰城に移しましたが、秀吉の小田原の陣へ参戦しなかった事で秀吉の不興を買い、改易させられます。その後、城は会津若松城が管理となり蒲生氏や上杉氏が支配します。

江戸時代には伊達氏、佐竹氏、上杉氏など外様大名の抑えの役割を期待され、名築城家の丹波長重が小峰城を大改修します。防衛は阿武隈川を後ろにたたえて居るため、攻防の備えは全面だけで良く本丸から三の丸まで四重の堀で囲い、本丸には三重櫓をはじめ櫓門などが建立され現代に見られるような城郭へと発展しました。日本100名城や東北三名城に選ばれています。2010年には国指定史跡となりました。

そんな堅牢さを誇る城も、戊辰戦争では激戦地となり、多くの建造物が消失し、戦争後は破損著しい為、廃城となりました。楼閣建築では唯一の太鼓櫓が民間企業に払い下げられ、その後、三の丸に移築し、今でも残っています。また、三の丸には戊辰戦争の弾痕が残っていて、当時に思いを馳せる事が出来ます。

また、白川小峰城は、平成の城復元ブームの先駆けとされ、その内容としては、城郭を城山公園として整備し、1991年には三重櫓を木造で復元、1994年には白河城櫓建絵図などを元に、前御門が忠実に復元されており、今では多くの観光客を集めています。 しかし、今現在、残念ながら東日本大震災により石垣などが崩れ、本丸内へ入る事が出来ません。復興が待たれます。