「白石城」は、宮城県白石市に有る「益岡城」「枡岡城」とも呼ばれる城郭構造梯郭式平山城です。1995年に三階櫓(天守)と大手の一ノ門と二ノ門、土塀の復元工事が完了しましたが、東日本大震災で壁などが崩落し、被害総額1億円と言われています。文化財などに指定されていない為、市の財源や浄財、寄付などに頼って復元作業を進めています。

天守は、仙台所の支城と言う立場と幕府をはばかって大櫓と呼び、形式は複合式層塔型三重三階でした。 主として、仙台藩伊達氏の支城として使われ、主に片倉氏が代々居住しました。一国一城令にて廃城の運命を辿るところでしたが、仙台城とともに明治維新まで存続しました。

1600年関ヶ原の戦いに際し、白石城の戦いで伊達政宗が上杉景勝から白石城を奪い取って政宗の叔父石川昭光が城代として入りました。その後、正宗の側近、片倉景綱(小十郎)が城主となりました。戊辰戦争の時には東北諸藩が集まり、白石列藩会議を開き、奥羽越列藩同盟の結成につながり、東北の重要な拠点となりました。

正宗の家臣で有名なのが、「鬼小十郎」と呼ばれた片倉景綱です。伊達家中では「武の伊達成実」と並んで、「智の片倉景綱」と称されました。智だけではなく、剣術にも長け、幼少期の政宗の剣術指南も務め、片眼だった正宗のコンプレックスも解消した逸話も残されています。また、大変な笛の名手であったとも言われています。

平時には内政を助け、戦時下においては謀略をめぐらし、陰に日向に伊達政宗を支え続けました。頑固と言われ独眼竜と称された伊達政宗も、小十郎の進言は素直に受け入れる事が多かったそうです。

正宗に忠実で、妻が懐妊した時には、正宗に子が居なかった事をはばかり、実子を亡き者にしようとしましたが、驚いた正宗の説得で思いとどまったと伝わっています。

景綱の知才は、豊臣秀吉にも聞こえ高く評価された為、景綱を直臣に迎えようとして、5万石の大名に取り立てようと誘いましたが、景綱は政宗への心底からの忠義が有った為、丁重に断っています。

晩年の彼はとても太っていたらしく、「伊達家世臣家譜」によると、政宗より「年を取って太ったその体では重い鎧は身に合わないであろう」と軽い鎧を賜ったという逸話が残されています。正宗もこの忠義な家臣を大事にして労っていた事が伺えます。

太っていた事と他の症状から、糖尿病を患っていたのではと考えられています。大坂の陣では病に伏し、子が参戦しました。死後、景綱の人徳を慕った家臣6名が殉死したと言われています。