福山城は、現在の福山駅北側から5分の立地に有る輪郭式平山城で、1619年に水野勝成が領主となった時に築城したのが始まりです。彼は城下町も整備し、地名も福山と名付けました。その後の城主は、水野氏5代、松平氏1代、阿部氏10代と続き廃藩置県にいたりました。

その時、廃城となり、1873年に天守閣、伏見櫓、御湯殿以外のほとんどの建物が取り壊されて民間へ払い下げられました。名城であったにもかかわらずなかなか買い手が付かなかったそうです。巨城なので金額が折り合わなかったと噂されています。

さらに、1945年の福山大空襲による火災で、天守閣と御湯殿も焼失しました。1966年福山市制50周年記念事業として天守閣、月見櫓、御湯殿が復元されました。焼失を免れた伏見櫓、筋鉄御門は、国の重要文化財に指定されて、城の跡地は、国の史跡として市民に愛され、管理、保存されています。

豊臣時代の猛将、福島正則が武家御法度にて失脚し、家康の従兄弟の水野勝成が入城して、西日本の外様大名への押さえの城として作られた為、10万石の城としては破格の巨城で、五重の天守や三重櫓七基を始めとした20以上を数える櫓はかなり大がかりな造りです。その後も幕府から金銀の融通が有り、西国の要として福山城の重要な役割が伺えます。

福山城に伝わる伝説で「五霊鬼」の話が有ります。 水野勝成は名君の誉れ高かったのですが、無類の戦国武将でも有りました。戦では一番槍は当たり前の勇敢な武士で「鬼日向」と呼ばれ、出世して家康から一番槍は慎むようにと諫められても、血が騒ぐのかその後も一番槍で戦場に乗り込み首級をあげます。

その勝成の手にかかった五人の魂がしばしば祟りを起こしたと伝えられています。水野家では不吉な事が起こる度に五人の墓に弔使を送って慰霊したと言われています。勝成が福山に移封されて以降、水野家が5代80年で断絶したのも五霊鬼の祟りだと伝えられています。

しかし、80年も治世が続けば良い方ではないでしょうか。また、跡継ぎに恵まれない事も水野家だけではなく、よく聞く話で、名君だった水野氏の治世を懐かしむ領民を押さえるために、後に入った阿部氏が作った話だとも言われています。

水野氏は、実質10万石だった福山藩を20万石前後まで潤して善政を敷き、治水や税金免除などに勤めましたが、阿部氏の時は領土が7割まで減らされた為、水野氏の時ほど上手く運営出来なかったと言われています。福山市民はこれらの悪評を払拭して、以前と変わらず水野勝成を福山開祖として祀り慕っています。