「竹田城」は兵庫県朝来市に有る「天空の城」と呼ばれる事でも有名な梯郭式山城です。1431年に山名宋全によって築城され、太田垣氏などが7代に渡って城主を勤め、最後の城主だった赤松氏が石垣を整備しました。東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)に築かれ、日本のマチュピチュとも称されるその場所は城下から遙か高く見上げる山頂で、円山川が起こす霧でいつも霞がかかった様子は天空の城の名にふさわしい佇まいです。その霧か雲か見分けが付かない靄の中に、古城が浮いているように見えて石垣群に目を奪われます。秋から冬にかけてよく晴れた早朝に朝霧が発生します。

縄張りは南北約400m東西約100mで天守を中央に配置し、本丸、二ノ丸、三ノ丸、南二ノ丸を連郭式に配置し、北千畳と南千畳を双翼として、天守台北西部に花屋敷と呼ばれる一郭を造りました。その縄張りは山全体を見ると虎が臥せているようで「虎臥城」とも呼ばれています。JR竹田駅から見上げた石垣辺りは虎の背中で、尾根伝いの山々が頭と首にあたります。天守台は有りましたが、天守は現存していません。

1600年に廃城されて遺構は石垣や堀、井戸が残り、その石垣は近江穴太衆(おうみあのうしゅう)と称する寺院などを造る腕の良い石工たちに拠るもので、年月が経ってもその見事さは変わらず現存する山城の中では屈指の規模を誇ります。山の高さを巧みに利用して、総石垣造りの曲輪を構築している点は他の山城とは一線を画しています。

朝来市は2012年4月に竹田城の管理、宣伝をする「竹田城課」を新設しました。 竹田城は300m以上もある険しい山頂に築かれましたが、今の時代でも大変な工事で有った事が想像出来ますが、昔は想像を絶する労苦が課せられたと伝わっています。

城下の竹田はもちろん但馬の国中から遠くは鳥取岡山からもたくさんの人々が駆り出されて、竹田は米の豊富な産地で有ったのに田んぼが荒れて松の木が生えたと揶揄されたりしました。その苦役は13年間も続き、村中で夜逃げをする人々が続出して窮した奉行は「夜逃げをする者は一家一族死罪にする。」という札を立てました。この札は今も残っていて苦役の証として伝わっています。

また城の門の為に巨大な石を運んでいた所、山の中腹あたりで途中から何をしても全く動かなくなり、築城奉行も諦めて石はうっちゃられました。そこまで運ぶのに人足たちが米千石食べたと言う事でこの岩は「千石岩」と呼ばれ築城の苦しさを語る伝説となりました。また城には水がとても大切で、水源を断たれたらすぐ落城してしまいます。城の西側に大路山の滝谷と言う水源が有り、約2kmもの銅管を設置して城に水を引きました。

水源には千眼寺と言う寺を建てて敵の目を欺きました。その様子が歌になって残っており「黄金千両 銀千両 城のまわりを七まわり また七まわり七もどり 三つ葉うつぎのその下の六三がやどの下にある。」と謎かけのような暗号のような歌詞です。これは水源や銅管の場所を後世に伝えたものだと言われています。