「萩城」は関が原で破れた毛利輝元が、周防、長門二国36万石へ転封された1604年に居城として築き始めました。幕末の舞台となった長州山口県の東端、日本海を臨む萩市堀内に天守台などが残っています。萩城が有る指月山は標高143m有り、麓の三角州を利用して要害とし背後の守りにしました。毛利氏は安芸広島では120万石を拝していましたが、関ヶ原の戦い後に僻地とも言える日本海側の萩に押し込められ、36万石と大幅に減封されました。

とても家臣を養えず皆に暇を出しましたが誰も去らず、家臣達は無禄でも良いのでお側にてお仕えしたいと誰も訊きませんでした。輝元は困窮し鬱したあげく幕府に城も領地も召し上げてくれと懇願した程でしたが、幕府は黙殺します。そこで厳しい検地を行い新田を開拓し、塩田を作り交易を盛んにして三田尻港へ回船が立ち寄るようにして幕末には実質100万石の力を有するまでになりました。

幕府へ虐げられてきた長州では初めこそ恭順の姿勢を取っていましたが、いつか倒幕をと言う思いは強かったらしく、藩士は江戸へ足を向けて寝ていたと伝わっています。家臣達は農民や商人へ転じて生活して来た為、武士でなくても先祖は毛利家の家臣と言う意識が強く、幕末の動乱でも身分を越えて固く結束し一丸となって倒幕へ向かいました。

幕末の大きなうねりを見てきた萩城ですが、1874年に廃城されて解体されるまで毛利13代が居城としました。「指月城」とも呼ばれ指月山の山頂に詰め丸が建てられ、麓には水堀で仕切られた本丸と二ノ丸、三ノ丸が造られました。戦国式の中世城郭的な構成の城で現在は石垣と壕が当時のまま残り、特に石垣は扇の勾配と呼ばれる壮麗な反りを持っています。規模から五層程度の天守が有ったと考えられますが、初めは幕府に恭順の姿勢を取っていた為改築などは以ての外でした。天守台に続く石垣の脇に設けられた雁木と呼ばれる石段は全国でも最大規模を誇るものです。

萩城の城下には白壁が美しい城下町が広がり、近くには藩校、明倫館や吉田松陰が学んで教鞭も執った松下村塾など幕末の息吹を感じる史跡が多数有り、幕末へ行ったような気持ちになります。山口出身の人は郷里の話をする時、先祖は長州藩士だったとか商人だったとか自身の先祖の流れをきちんと確認し把握している人が多いのが特徴です。

その他、毛利家の墓所や家老の旧福原家書院など見所が多数有ります。福原家は山口県宇部市を領し、萩城の三ノ丸に有った屋敷をそのまま移築しています。 萩城城郭内に有る「志都岐山神社」には日本に4本しか無い「ミドリヨシノ」と言う桜が植わっています。「ソメイヨシノ」に似ている為名付けられましたが、ガクの所が緑で上品な白い花を咲かせ、幕末でも現在でも桜の美しさは同じだという事を教えてくれます。