蝦夷松前城は、軍学に基づいて日本式で築かれた最後の城郭です。江戸幕府が開国を迫って威嚇してくるロシア船に対抗する為、松前藩に築城させました。

松前家が居城としていた陣屋を改築、拡張して設計され、本丸から三の丸までを津軽海峡に向けての攻防を想定して長沼流兵学者、市川一学の指揮により三段のひな壇式に築城されました。また、寒冷地のため天守や櫓、門の屋根などには寒さで凍み割れやすい粘土瓦ではなく銅板を用い工夫されました。

城壁に銃撃戦を予想して鉄板が仕込まれ、7基の砲台と25問の大砲が海への攻防を想定して設置されましたが、背後に天然の要害を有する為、守りが手薄の造りになっていました。

戊辰戦争の時に元新撰組の土方歳三が率いる旧幕府軍700人にそこを突かれ、あえなく数時間で落城しました。石垣には当時の銃撃戦を物語る弾痕が残っています。この時、大砲を一発撃っては砲台を城内に引き戻して弾を装填し、また、門の外に押し出して撃つという非常に原始的な攻撃だったそうで、近代武器を携えた旧幕府軍の前ではひとたまりも有りませんでした。

この時に、天守と本丸御門などは難を逃れましたが、天守は太平洋戦争後の失火により消失しました。これは、町職員が城跡内に有る町役場に宿直で泊まり込んでいた時に寒かったので、電灯に毛布をかぶせコタツの代わりにしたのが飛び火し火事になったと言う信じがたい事が原因で、当時の損失額は約2000万円と言われています。その後1960年に鉄筋コンクリートして再建し今の姿となっています。

天守の脇に建てられた本丸御門は、門の高さが低く、屋根が切妻造りの独特の風情を持つ櫓門で、高い技術で造られたなめらかさを感じる石垣はノミで丁寧に形を整えた亀甲積みと呼ばれ、緑がかった石垣が非常に美麗です。旧国宝の本丸御門は1950年に重要文化財に指定されました。

当初から現存する建築物は本丸御門と本丸表御殿玄関、旧寺町御門のみで、また、堀、曲輪、石垣など見所のところも多く、旧城地一帯が国の史跡に指定されています。 また、松前城は別名とされ、地元では福山城が城名とされています。しかし、広島の備後福山城と混同されるため、松前城の方が一般的です。

龍雲院、法源寺、松前家の菩提寺と墓所など5つの寺が現存していて、城と寺町の一帯は遅い春を迎えると、北海道で最も早く桜が見ごろとなる名所でもあります。松前は、“北海道の鎌倉”と呼ばれ、桜には名前が付けられています。有名な血脈桜は、「南殿(なでん)」と呼ばれる桜で、他に「糸括(いとくくり)」「雨宿(あまやどり)」「白雪姫」などの桜を楽しめます。