「諏訪高島城」は、長野県諏訪市にあった1592年から秀吉の家臣、日根野高吉が造り上げた連郭式平城で、その際、村人には漁業権や賦役免除権などの特権を与える代わりに、小和田へ移転させたりしました。高吉は、信長、秀吉の下で城普請を経験していた事から、両方の様式を上手く取り入れた城作りを行いました。

かつては諏訪湖に突き出した水城だったので、「諏訪の浮城(すわのうきしろ)」と言う風流な名で呼ばれていましたが、江戸時代の諏訪湖干拓にて、水城では無くなり、後年になって「諏訪の浮城」と呼ばれていた事から、「日本三大水城」に数えられる事になりました。

築城された当時は、城の石垣に波が砕ける浮島城と讃えられ、その姿は後に、葛飾北斎の「冨岳三十六景信州諏訪湖」や、渓斎英泉の「木曾街道塩尻嶺諏訪湖水眺望」の浮世絵に描かれています。戦国時代当時は、城郭は湖中の島で、この島に通じる道は縄手と呼ばれていました。現在では、並木通りとして残っています。

天守は独立式望楼型三重五階で、総石垣造りの八つの櫓と六棟の門が建てられ、近世の城郭の体裁が整えられましたが、地盤が良くなく、木材を筏に組んで補強し、さらに、石を積むという、当時では最先端の技術が用いられました。水城のためか工夫を凝らしても石垣が傷みやすく、度々補修がされました。手伝いに駆り出された領民たちによる、労働が過酷だったとか、石材の確保のため墓石や石仏も使われたなど、転用石の話も伝承されています。

その後は、幕末まで諏訪氏の治世となり、1626年には家康の六男、松平忠輝を預かった時に南ノ丸を増設し、その事が始まりで、南ノ丸はその後も罪人の監禁場所となりました。

1871年、明治になり、廃藩置県によって城は県庁舎として利用されました。1875年には、天守以下建造物は破却され、一部は移築されて石垣と堀だけになりましたが、1970年に本丸、天守、櫓、門、塀が復元され、高島公園として整備されました。城内に諏訪護国神社も建立されています。

天守は、昭和初期の頃の写真に見られるような独立式望楼型三重五階で、一ノ重を入母屋の大屋根とし、二ノ重の望楼が載せられ、その東西面に入母屋破風出窓を設け、三ノ重には南北面に華頭窓を持つ切妻破風出窓と東西面に外高欄縁が設けられていました。各所に華頭窓が用いられ、屋根は瓦葺ではなく、檜の薄い板を葺く柿葺で風情が有りました。

今見る事が出来る復興天守は、窓の大きさや位置などの細部が異なり、屋根には銅板が葺かれています。