「高松城」は香川県高松市に有る輪郭式平城で、1669年に改修された天守は立式層塔型三重四階地下一階で非現存です。秀吉による四国平定後、秀吉の命によって1587年に生駒親正氏によって築城され、今見られる遺構は松平頼重によって改修されたものです。 他の城と同じように明治に入った1869年に老朽化のため廃城されました。

遺構は北ノ丸月見櫓、水手御門・渡櫓、旧東ノ丸艮櫓、披雲閣が有り国の史跡となっています。別名の「玉藻城」は、万葉歌人として名高い柿本人麻呂が讃岐の国の枕詞として、高松城周辺の海域を玉藻の浦と呼ばれていた事に因んで「玉藻よし」と詠んだ事に由来されます。また伝わる民謡では「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われ、歌人の与謝野晶子は「 わだつみの 玉藻の浦を前にしぬ 高松の城龍宮のごと 」とその美しさを讃え詠んでいます。

歌でも度々讃えられている高松城は日本三大海城の一つで、天守は南蛮造りと呼ばれ最下段が天守台より張り出していて萩城や熊本城にも見られる形式です。北側の海を生かした難攻不落の城で、海側から眺めると白壁が海に浮かんでいるように見えコントラストが美しいです。明治に入ってから老朽化による廃城の前にイギリスの新聞社がヘンリー・ギルマールの絵で紹介しているほど珍しい形式のようです。

この高松城に石垣の老朽化による改修をきっかけに天守復元の動きが有り、石垣の天守台が復元されて一般公開されています。この復元は容易ではなく、1882年に撮影された写真が一枚しか残っていなかった事から文化庁に復元の審議さえしてもらえない状態でした。 幕府のご機嫌伺いのために何度か廃城願いが出され、その時に設計図も破棄された為、資料が無いのが悔やまれました。

ところが2003年夏に高松が国の構造改革特区に申請され、その後1884年頃に撮影されたと見られる2枚目の写真がケンブリッジ大学で発見され、文化庁の態度が軟化しました。 2009年3月には築城主である生駒家の家紋の波引車を模した瓦が出土して、天守に使用されていたと想像されています。生駒氏は高松城の他にも丸亀城、引田城も築城していますが、家紋入りの瓦が出土するのは初めてです。

名古屋城でも木造による天守復元の動きが有り、高松城も近くに有る大洲城のように是非木造で復元して欲しいです。 復興や模擬ではなく遺構を生かして、築城された時の状態に忠実に再現して歴史的建築物として受け継いでいきたいものです。 四国には全国で12しか無い現存天守を持つ城の内の4つが有り、それは丸亀城、松山城と宇和島城、高知城ですが、ここに高松城が復元されたら近くに有る栗林公園と相まって観光名所となるでしょう。