「赤穂城」は1466年から1483年にかけて播磨守護赤松氏の一族、岡光広によって建てられた変形輪郭式平城です。別名は古代の地名から「加里屋城」「大鷹城」とも呼ばれます。その後は池田長政や浅野長直などによって改修されましたが1873年の廃城まで天守は造られませんでした。遺構として石垣と堀を見る事が出来ます。櫓と門、庭園は復元中で完成が待たれます。

1702年の赤穂浪士の討ち入りで有名な史跡ですが、JR赤穂駅から徒歩10分で行けるほど近く気軽に立ち寄れる城です。三ノ丸には「大石良雄宅跡長屋」「近藤源八宅跡長屋門」が有り、江戸時代の貴重な建築物として現存しています。城内の大石神社には「大石内蔵助良雄以下四十七義士」が祀られていて浅野長直、長友、長矩の三代に渡る城主と、最後の藩主森氏の先祖で本能寺の変で戦死した森蘭丸が合祀されています。

岡氏が築城した頃は「刈屋城」と称していましたが赤松氏の勢力が衰えると共に宇喜多氏が統治します。関ヶ原後に西軍に与した宇喜多氏が改易されると、池田氏が入城して赤穂藩となりました。

池田氏は陣屋造りだった赤穂城を本格的な城郭とするため縄張りを兵学者、山鹿素行に依頼し、築城のアドバイスを受けました。その当時「武家諸法度」により新たな城の建築や造築は、外様大名に力を持たせないため厳しく取り締まられていましたが、赤穂城改築は異例のたった1日で許可されました。

初めの設計では天守をあげる計画でしたが結局築かれる事は有りませんでした。山鹿素行は実戦での大砲交戦を意識して、五稜郭に使われている三角形の稜堡を組み合わせて大手口を突き出し、搦手口を瀬戸内として大手口に敵を集めるよう攻撃しやすい死角を消した縄張りを考えました。

実戦向きの城を築いた浅野氏ですが、1701年3月14日、浅野長矩が江戸城松の廊下で吉良義央に斬りかかりすぐさま取り押さえられ切腹を命ぜられ、浅野家は閉門となりお家は断絶しました。 その後の赤穂城は永井氏が治め1706年に森氏が転封されて以後、明治までの160年間あまりは森氏が城主を勤めました。

浅野家の菩提寺「花岳寺」には枝振りの良い「大石内蔵助良雄なごりの松」が残っています。討ち入りの10年前に母の死を悼んで植えたもので、討ち入り後に切腹を命ぜられた時も松を見上げて現世へなごりを惜しんだと言われています。現在は2代目で、初代の松は枯れてしまった為、切り株のみ残っています。

また松の隣に「鳴らずの鐘」が有って赤穂浪士の切腹を悲しんだ人々が花岳寺に集まり、赤穂浪士の魂を弔う為にこの鐘を打ち続けたと言われています。あまりにも鳴らしすぎていくら打っても鳴らなくなり、さらに赤穂浪士は義士として伝説になりました。その後この鐘は戦争で鉄の供出が行われた時も「赤穂浪士ゆかりの鐘」の伝説ゆえ供出を逃れました。