「長浜城」は、滋賀県長浜市に有る平城で、城作りが大好きな秀吉が、初めて造った城としても知られています。築城年は、秀吉が羽柴姓を名乗っていた1573年で、賤ヶ岳の戦い後の6年ほど、後の高知を治めた山内一豊も城主でした。 また、長浜は、元は今浜と言っていた事から、「今浜城」とも呼ばれていて、秀吉が入って「長浜」と改めたのです。

元は佐々木高氏が室町時代の初め頃に出城を築き、それが基盤となっていると伝えられています。 姉川合戦の功で長浜に居を移した秀吉は、城を築いて、数年間居城としました。1583年の賤ヶ岳の戦いで、長浜を本拠地として据え、大勝を得て、揺るぎない地位を獲得しました。

長浜城の歴史を語る事は、秀吉の出世物語を語る事となります。 司馬遼太郎の「功名が辻」では、山内一豊夫人が、秀吉は長浜の頃が一番生き生きしていたと懐かしむ描写が有ります。確かに天下取りまでの課程はワクワクしますね。

わずか40年あまりの1615年に廃城となり、大半の資材は彦根城へ流用され、彦根城の天秤櫓(重要文化財)や三重櫓は長浜城のものだと言われています。 また、長浜市内の大通寺台所門や、知善院表門も長浜城の遺構として名高く、重要な史跡として1962年に市の指定文化財となっています。

お城にはよく伝わる人柱伝説ですが、実際に人が埋められた訳ではなく、人形(ひとがた)や輪宝(りんぽう)と呼ばれる代用品を埋めた話はよく伝わっています。 人柱はお城の時代ではなく、思いがけず近年によく見られていた事だと指摘する文献も有り、実際には人骨は出てきていないらしいのですが、伝説は残っています。

長浜城には「おかね」さんという長浜一の美人が人柱に選ばれて、城下の繁栄の為に身を捧げてくれたと言う悲しい話が伝わっています。 長浜城天守跡の北側の堀は、「おかね堀」と呼ばれていて、おかねさんを偲んでいます。

もう一つ人柱伝説が有り、旧本丸跡に有る稲荷神社に祀られている「きく」さんの話です。人柱を探してもなかなか見つからないのは当たり前で、秀吉から命を受けた京極氏は困っていると、そこへ漁師が通りかかります。京極氏は人柱のことは言わずに、この辺りに若い娘はいないか尋ねました。

すると漁師は娘が二人いると答えたので、一人を築城の人柱に捧げてはくれぬかと頼み込みました。断れない漁師は悩みに悩んで盲目の「しのぶ」が不憫だからお城のお役に立てるように差し出す事にします。しかし、姉の「きく」が妹をかばって、私はしのぶより幸せだったので思い残す事は無いと人柱になる事を願い出るのです。

ここまでの姉の気持ちを背負って築城された長浜城が、わずか40年ほどで廃城となったのが悔やまれますが、伝説は語り継がれていきます。